第六話 名を呼ぶには、まだ早い②
朝食を終えると、エレオノーラは母の私室を辞して、自分の部屋へ戻った。廊下を歩くあいだも、母の言葉はすぐには薄れなかった。自分がどこに座っているのかは、忘れないように。座る場所は椅子の位置だけではないのだと、まだはっきり分かったわけではない。けれど、その言葉を思い出しながら寝室へ戻ると、机の上に置かれた名簿と席次案が、朝より少し違って見えた。
ナディアが控えめに椅子を引く。エレオノーラは机の前へ座り、クライン伯爵家、エルヴェール子爵家、ロシュフォール侯爵家の名を、声に出さずにもう一度目で追った。紙の上では、どの家名も同じ黒い文字だった。けれど午後になれば、その文字は笑う声になり、礼をとる手になり、こちらを見る目になる。ベアトリス・クライン。クラリッサ・エルヴェール。ベルナール・ロシュフォール。まだ会っていない相手の名を心の中で置くたびに、胸の中の緊張は大きくなるのではなく、少しずつ形を持っていった。
「お嬢様、こちらが本日の席次案でございます」
ナディアが示した紙には、低い卓を囲む席が簡単な線で描かれていた。エレオノーラの席は中央ではない。けれど、客を迎える側として、客間に入った者が最初に目を向ける場所に置かれている。その右手には、家名も人名も書かれていない席が一つあった。左手にはクライン伯爵令嬢、その隣にエルヴェール子爵令嬢。向かい側には、ロシュフォール侯爵家のベルナールの名が記されている。
エレオノーラは、右手の空白に目を留めた。
「この席は、どなたのためのものなの?」
「王太子殿下がお越しになった場合に備えたお席でございます」
ナディアの声は、驚かせないように少し低く整えられていた。エレオノーラは紙から目を離さないまま、指先を止めた。今日の茶席に同年代の令嬢や子息が来ることは知っていた。けれど、アレクシスがそこに加わるとは、まだ聞いていなかった。名前のない席が一つあるだけで、紙の上の客間が急に違う場所のように見える。
「殿下が、こちらへ?」
「王妃殿下のお許しにより、王太子殿下が短くお立ち寄りになる可能性があると、今朝、王宮より知らせがございました。王宮の侍従がお伴なさるとのことです。確定ではございませんが、ローレンがどちらにも動けるよう席を整えております」
「……そう」
来るかもしれない。来ないかもしれない。けれど、席は用意されている。人を迎えるとは、すでに決まった客だけでなく、来るかもしれない相手の場所まで考えておくことなのだと、エレオノーラは初めて少しだけ思った。けれどその場所がアレクシスのためのものだと分かると、ただ作法の一つとして見るには、胸の奥が少し騒がしかった。
名簿と席次案をもう一度確かめたあと、エレオノーラは紙を閉じた。今日いらっしゃる家名は覚えた。けれど、覚えたからといって相手の声まで分かるわけではない。クライン伯爵令嬢、エルヴェール子爵令嬢、ロシュフォール侯爵家のベルナール。紙の上にあった名は、午後には客間の椅子に座り、自分へ礼をし、こちらの言葉を聞く。そのことを思うと、胸の中の緊張は消えなかったが、どこを見ればよいのかは朝より少し分かっていた。
午後の支度は、王宮へ向かう日ほど重くはなかった。けれど、屋敷の中で過ごすためだけの服ではない。客を迎える娘として、誰の前に出ても乱れがないように整えられる装いだった。ナディアは、淡い菫色のドレスを用意した。布は柔らかく、袖口には細い白糸の刺繍が入り、腰には同じ色のリボンが控えめに結ばれる。髪は高く上げず、耳の後ろでゆるくまとめ、灰金の髪が背へ流れるように整えられた。鏡の前に座るエレオノーラは、王宮の儀礼の間に立ったときほど硬くはない。けれど、ただの子どもとして庭へ出る顔でもなかった。菫色の布が白い肌をいっそう透き通って見せ、青灰色の瞳には朝から抱えている考えの影が薄く残っている。その影のせいで、幼い顔立ちは少し大人びて見えた。睫毛が伏せられると、頬に落ちる影まで静かで、ナディアが髪を留める手をほんの一瞬止めた。
「ナディア」
「はい、お嬢様」
「今日は、わたくしの言い方が硬く聞こえたら、あとで教えて」
ナディアの手が、今度は止まらなかった。銀の細いピンを差し込み、髪の流れを指で整えてから、鏡の中で主人を見る。
「硬く聞こえた、というだけでございましょうか?」
エレオノーラは、その問いの意味を考えた。硬い言葉が、いつも悪いわけではない。祖母も父も、立場に合った言葉を選ぶことは必要だと教えてくれた。けれど、硬さの中に、相手を遠ざける響きが混じることもある。昨日、アレクシスが前より遠いと言ったように。
「ええ。どの言葉がそう聞こえたのかも、あとで聞かせて」
「かしこまりました」
ナディアは一度静かに答え、それから銀のピンをしまう手をゆるめた。鏡越しに見える顔は、叱るものではなく、主人の迷いを確かめるような穏やかさをしていた。
「お嬢様。それは、今日のお席で、どなたかを遠ざけてしまうのではないかとご心配でいらっしゃるのですか?」
エレオノーラはすぐには答えられなかった。鏡の中の自分は、菫色のドレスを着て、髪も整えられて、これから客を迎える公爵家の娘に見える。けれど、その中にいる自分は、まだ昨日の小書斎で、アレクシスに前より遠いと言われた声を持ったままだった。
「……少し」
声にすると、その言葉は思っていたより小さかった。
「近づきすぎてもいけないのでしょう。でも、遠ざけたいわけでもないの。どちらに聞こえるのか、自分では分からないことがあると思うのです」
ナディアは、鏡の中で少しだけ目を伏せた。
「では、お嬢様のお言葉のあと、皆様が次のお言葉を探していらっしゃるようでしたら、お茶を注ぎ直すか、お菓子をお勧めするかして、次へ移りやすいようにいたします。お嬢様のお言葉を遮ることはいたしません」
エレオノーラは、その言い方なら息ができると思った。直されるのではない。責められるのでもない。ただ、もし自分の言葉のあとに場が少し立ち止まったなら、ナディアが次の流れを作ってくれる。
「その時は、お願いしてもよい?」
「もちろんでございます」
ナディアは鏡の中で、ほんの少しだけ目元を和らげた。
エレオノーラは小さく頷いた。ナディアに任せるとは、ひとりで立派に命じることだけではなく、必要なときに助けてもらえる形を先に作っておくことでもあるのだと、その時はまだ言葉にはできなかったが、胸の奥のこわばりが少しだけほどけた。
ナディアが最後に髪飾りの位置を整え、ドレスの裾を指先で払う。鏡の中のエレオノーラは、まだ昨日のことを完全に置いてきた顔ではなかった。けれど、朝に見た名簿の家名も、右手に空けられた席のことも、ただ胸の中で重く沈んでいるだけではなく、これから自分が確かめに行くものとして、少しずつ形を持ちはじめていた。
「参りましょう、お嬢様」
ナディアの声に頷き、エレオノーラは椅子から立った。廊下へ出ると、客間のほうから控えめな足音と、茶器を運ぶ小さな音が聞こえてくる。朝の寝室で紙の上にあった席は、もう紙の上だけのものではなく、屋敷の中で人を待つ場所になっていた。エレオノーラは歩きながら、右手の席が空いたまま整えられているところを思い浮かべ、胸の奥に残った緊張を小さく飲み込んだ。
茶の席は、屋敷の南側にある小さな客間に整えられていた。小さな、といっても、ヴァルクレスト公爵家の客間である。淡い色の壁紙には蔦と白い花の模様が織り込まれ、窓の外には手入れされた庭の一部が見える。中央には低い卓が置かれ、子どもたちが座りやすい高さの椅子が用意されていた。茶器は王宮で使われるものほど華美ではないが、薄い磁器に銀の縁取りがあり、菓子皿には小さな焼き菓子と果物の砂糖煮が並んでいる。ローレンはすでに席の配置を整え、控えの侍女たちへ目配せしていた。彼はエレオノーラが入ると、少しだけ礼を深くした。
「お嬢様、本日の席は、朝にご確認いただいた席次案の通り整えております。王太子殿下がお越しになった場合に備え、お嬢様の右手は空けてございます。クライン伯爵令嬢は左手に、エルヴェール子爵令嬢はその隣に。ロシュフォール侯爵家のベルナール様は向かい側のお席でございます」
ローレンが視線で示した右手の椅子は、まだ誰も座らないまま、茶器だけが整えられていた。朝の席次案で家名のなかった場所が、今は本当に空席としてそこにある。アレクシスが来るかもしれないと思うと、胸の中のどこかが明るくなり、同時に、昨日の言葉がその明るさの縁を少し曇らせた。前より遠い。今日もし会えたら、自分はどんな声で話せばよいのだろう。柔らかくしようとしすぎれば、また前のように答えを持ってしまうかもしれない。硬くしすぎれば、また遠いと言わせてしまうかもしれない。
「ローレン」
「はい、お嬢様」
「殿下がお越しになったら、母へ知らせて。わたくしは、母と一緒にお迎えします」
「承知いたしました」
ローレンの返事は短く、穏やかだった。エレオノーラは、右手に空けられた席をもう一度見た。そこにまだ誰も座っていないことに、少しだけ息がしやすくなる。来るかもしれない人のために席を整え、来たときには母と一緒に迎える。それだけを決めておくと、胸の中で騒いでいたものが、ほんの少し形を持った。




