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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第六話 名を呼ぶには、まだ早い①

朝の光が寝室の帳を薄く透かすころ、エレオノーラの机の上で、ナディアが昨夜は閉じられていた家門名簿と、今日の茶席に使う席次案を静かに並べていた。椅子を引く音も、封蝋の見本を窓から入る光の届く場所へ移す音も、ごく小さかったが、その気配で目を開けたエレオノーラは、しばらく寝台の中から机の上を見ていた。王宮の小書斎で聞いた言葉は、昨夜ほど強く耳の奥に残ってはいない。けれど、消えたわけでもなかった。前より遠い、と言ったアレクシスの声は、招かれる家の名が並んだ紙の上に朝の光が落ちるたび、そこに書かれた文字とは別の重さで胸の中へ戻ってくる。


「おはよう、ナディア」


声を出すと、自分が思っていたより喉が乾いていることに気づいた。泣いたわけでも、熱があるわけでもない。ただ、昨日一日、言葉を選び続けた疲れが、眠っている間も完全にはほどけなかったのだろう。ナディアは寝台の脇へ湯を置き、帳を片側だけ留めて、朝の光が入りすぎないようにした。


「おはようございます、お嬢様。お湯をお持ちいたしました」


「ありがとう。その名簿は、そのまま机に出しておいて。今日いらっしゃる方々の家名を、朝食のあとにもう一度見ます。席次案も一緒に」


言ってから、エレオノーラは、今の言い方が頼みごとではなく、侍女に役目を渡す言葉になっていただろうかと、胸の内でそっと確かめた。ナディアは短く礼をし、机の上で途中になっていた支度へ戻ると、名簿の角をそろえ、席次案をその隣へ音を立てずに置いた。


「かしこまりました。クライン伯爵家、エルヴェール子爵家、ロシュフォール侯爵家の名簿と、本日の茶席の席次案でございますね」


「ええ。それと、昨日、王妃殿下が席次についてお尋ねになったときの写しも。今日の席とは違うけれど、見方を忘れないうちに、もう一度確かめたいの」


ナディアが静かに礼をして動く。彼女の背中を見ながら、エレオノーラは、まだ言葉の使い分けを知らなかったころの自分なら、紙を見てもよいでしょうか、と尋ねていたかもしれないと思った。取ってもよいですか、開いてもよいですか、読んでもよいですか。そう言えば優しい気がしていた。けれど今、ナディアは必要なものをひとつずつ整え、主人の言葉を受け取った侍女として働いている。その手つきに傷ついた気配はなく、むしろ、何をすればよいのかがはっきりしている静けさがあった。


名簿と席次案が机の上に落ち着くと、部屋の中の朝も少し形を持ったように見えた。エレオノーラは寝台から足を下ろし、ナディアが差し出した室内履きに足を入れる。湯で手と顔を清めるあいだ、机の上の封蝋の見本が窓から入る光を受けて、赤や青の縁だけを淡く光らせていた。まだ開いていない名簿がそこにあると思うと、王宮の小書斎で聞いた声も、ただ胸の奥に残るだけではなく、今日もう一度見直すべきものとして机の上に置かれているようだった。


髪を整え、軽い朝のドレスに袖を通すころには、廊下の向こうから食器の触れ合う小さな音が聞こえ始めていた。屋敷の朝は、寝室の中だけで止まってはくれない。ナディアが最後に袖口を直し、エレオノーラが机の上へもう一度目を向けると、名簿も席次案も、彼女が戻ってくるまでそこで待っているように静かに並んでいた。


母の私室へ向かう廊下は、寝室より少し明るかった。窓の外では、従僕が朝の露に濡れた小道を掃いている。箒の先が石に触れる音は小さく、廊下へ届くころには、ほとんど布の上を撫でるような響きになっていた。エレオノーラはその音を聞きながら、王宮の小書斎の床とは違うと思った。王宮の床は、足音を少しだけ硬く返す。公爵家の朝は、同じ石でも、もっと人の生活の中に沈んでいる。ここでは、間違えてもすぐに国の礼法になるわけではない。けれど、ここで覚えた言葉が、王宮へ持ち込まれる。そう考えると、母の私室の扉の前で立ち止まる一呼吸まで、少し違って感じられた。


朝食の席で、母はエレオノーラの顔を見ても、眠れませんでしたかとは聞かなかった。そう聞かれたら、眠れなかったのだと認めなければならなくなる。母はそれを分かっているのだろう。代わりに、蜂蜜を少し入れた温かいミルクをエレオノーラの近くへ置き、梨の薄切りを小皿に分けた。


エレオノーラは礼を言って匙を取ったが、すぐには梨へ手をつけられなかった。甘い匂いは分かる。湯気の立つミルクが冷めないうちに飲んだほうがよいことも分かっている。けれど、指先は匙の柄を持ったまま止まり、耳の奥にはまだ、前より遠い、と言ったアレクシスの声が薄く残っていた。昨夜の馬車の中で、母はその痛みを急いで消そうとはしなかった。正しい言葉がいつも柔らかく聞こえるとは限らないことも、次に少し言葉の置き方を変えられるかもしれないことも、もう聞いている。それでも朝になったからといって、胸の中の重さがきれいに片づくわけではなかった。


母は、その沈黙を急かさなかった。エレオノーラが匙を置きかけたところで、小皿の梨を一切れだけ指先で示す。


「まず、少し召し上がりなさい。空いたままの胸で考えると、昨日のことばかりが大きくなります」


エレオノーラは言われた通り、梨をひと切れ口に運んだ。薄く切られた果肉は冷たく、蜂蜜とは違う静かな甘さが舌に残った。飲み込んでも、胸の奥の重さがなくなるわけではない。けれど、母が昨日の続きをそのまま話させようとしていないことは分かった。


母は、エレオノーラがもう一度匙を置くまで待ってから、声を少しだけ変えた。


「午後の席のことを話しましょう」


その言葉は、昨日の話を切り捨てるものではなかった。けれど、そこへ沈んだままにもしない声だった。エレオノーラは顔を上げる。


「午後の席、ですか」


「ええ。今日は、あなたが初めてお迎えする方々がいらっしゃいます。王宮で殿下に言葉を返すこととは違いますが、そこにも、言葉の距離はあります」


「言葉の距離……」


「近くへ来ようとする方に、すぐ同じだけ近づく必要はありません。かといって、最初から遠ざける必要もありません。礼を尽くしながら、どこまで受け取るかを見ていくのです」


エレオノーラは、朝の机に置いてきた名簿を思い出した。クライン伯爵家、エルヴェール子爵家、ロシュフォール侯爵家。紙の上ではただの家名だったものが、午後には声を持ち、表情を持ち、この屋敷の客間に座る。名前を呼び、礼を交わし、目を合わせ、言葉を返さなければならない。そう思うと、昨日の小書斎とは違う緊張が、胸の奥に小さく生まれた。


「わたくしは、何をすればよいのでしょう」


「まずは、ヴァルクレスト家の娘として、いらした方にきちんと礼をすることです。今日は、あなたがすべてを上手に運ぶ日ではありません。ナディアに支度を任せ、ローレンが整えた席を見て、どなたがどこに座るのかを覚えておきなさい。挨拶をして、お茶をいただきながら、相手の声を聞く。それだけでよいのです。ただ、自分がどこに座っているのかは、忘れないように」


自分がどこに座っているのか。祖母の席次板で教えられた言葉に似ていた。エレオノーラは頷いた。怖いのか、緊張しているのか、それとも少し楽しみなのか、自分でも分からなかった。けれど、分からないまま別の名前を急いでつけなくてよいことは、もう母から教わっている。彼女はもう一度梨を口に運び、甘さが消えるまでゆっくり噛んだ。

次は20時ごろに投稿できたらと思っています。

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