第十話 母④
「お母様は」
声が出た。けれど、そのあとの言葉が続かなかった。お母様はどうなったのですか。眠っているのですか。もう会えないのですか。リュシアンはどうなるのですか。お父様は。どうして。どれも一度に喉へ上がり、どれも声にならなかった。
祖母は近づいてきた。いつものように、感情をすぐに言葉へ変える人ではなかった。けれど、今は祖母の目にも、水のような光があった。それが涙なのかどうか、エレオノーラは分からなかった。祖母が身をかがめ、エレオノーラの目の高さへ近づく。珍しいことだった。いつもは上から言葉を置く祖母が、今は自分の前で高さを変えた。
「あなたの母は、リュシアンを産みました。そして、あなたを呼びました。あなたはその手を握りました。そのことを、忘れてはなりません」
忘れてはならない。何を。母がリュシアンを産んだこと。自分を呼んだこと。手を握ったこと。熱かったこと。怖いと母が言ったこと。顔を見せてと言われたこと。リュシアンを怖がらないでと言われたこと。
全部が一度に戻ってきた。
エレオノーラは息を吸おうとした。けれど、胸の途中で止まった。泣き声は出なかった。涙も、すぐには出なかった。ただ、体のどこかが広く空いてしまったようだった。そこに風が入る。音が遠くなる。ナディアの手の温度も、祖母の声も、部屋の灯りも、少し離れたところにある。
父が奥の部屋から出てきたのは、そのあとだった。
オルドリックは、扉のところで一度止まった。エレオノーラは父を見た。いつもの父だった。背はまっすぐで、表情も崩れていない。けれど、目の中にあったものは、いつもの父ではなかった。王宮で国王と向かい合う重臣でも、公爵家の当主でもなく、妻を失った人がそこにいた。エレオノーラはその顔を見た瞬間、初めて涙が出た。
父は何も言わず、エレオノーラの前まで来た。抱きしめる人ではない。少なくとも、これまでの父はそうではなかった。けれどその夜、父は片膝をつき、エレオノーラを腕の中に引き寄せた。強い抱擁ではなかった。彼女が壊れないように、けれど逃がさないように、父の腕が背中に回る。
「エレオノーラ」
父の声が、頭の上から落ちた。
「泣いてよい」
その一言で、エレオノーラの体がようやく母の死を受け取った。声が出た。きれいな泣き声ではなかった。何かが喉の奥からこぼれ、父の礼服に顔を押しつけたまま、息が乱れた。母の手はもう熱くない。もう、困ったと言ってよいのですよ、と言ってくれる声は戻らない。リュシアンを怖がらないでと言った声も、顔を見せてと言った声も、もう新しく増えることはない。
廊下の向こうで、リュシアンが泣いた。
その声を聞いて、エレオノーラは父の腕の中で体を強ばらせた。泣き声は小さい。けれど、母がいなくなったあとで聞くと、昨日とは違って聞こえた。母は、あの子を怖がらないでと言った。怖くなったら、怖いまま抱いてあげなさいと言った。エレオノーラは涙の中で、その言葉をつかもうとした。つかめなかった。けれど、失くしてはいけないと思った。
夜は、そのまま長く続いた。誰も、すぐに朝を連れてきてはくれなかった。奥の部屋の扉は閉じられ、屋敷の者たちは静かに動いた。泣く者もいたが、大きな声ではなかった。ローレンは父の指示を受け、記録と書状を整えた。祖母は、リュシアンの部屋と奥の部屋の間を何度も行き来した。ナディアはエレオノーラのそばにいた。水を持ち、布を持ち、時々何も持たず、ただそこにいた。
エレオノーラは、いつ眠ったのか分からなかった。眠ったというより、涙と疲れの間で意識が薄くなり、気づいたときには窓の外が白くなっていた。寝台ではなく、控えの間の長椅子に横になっていた。肩には厚い布がかけられている。ナディアが近くに座っていた。彼女も眠っていなかったのだろう。目元に疲れがあり、それでも姿勢は崩れていなかった。
朝になっていた。
いつもなら、母の私室へ茶器が運ばれる音がする時間だった。けれど、その音はなかった。厨房は動いている。侍女たちも働いている。屋敷は止まっていない。けれど、何かが欠けていた。音がひとつ足りないのではない。屋敷の空気の中心から、母の息遣いがなくなっている。
リュシアンの泣き声が、遠くから聞こえた。
エレオノーラは体を起こした。布が肩から落ちる。ナディアがすぐに手を伸ばしたが、エレオノーラは自分で布をつかんだ。まだ涙のあとが頬に残っている気がした。目も重い。喉も痛い。けれど、リュシアンの声は聞こえた。
「リュシアンは」
「乳母がついております。若君は、お腹が空かれたようでございます」
ナディアの声は少しかすれていた。エレオノーラは頷いた。母はもういない。けれどリュシアンはお腹が空いて泣いている。昨日と同じように、小さな声で、必死に生きようとしている。
母の言葉が戻った。
怖くなったら、怖いまま抱いてあげなさい。
エレオノーラは、まだ立ち上がれなかった。立てば、母のいない朝が本当になる気がした。けれど座ったままでも、もう本当だった。母の茶器の音はしない。父の声も遠い。祖母の足音が廊下を通る。ナディアがそばにいる。リュシアンが泣いている。
「ナディア」
「はい」
「あとで、リュシアンのところへ行きます」
声は小さかった。けれど、出た。ナディアは深く頷いた。
「かしこまりました」
その返事を聞いて、エレオノーラは長椅子の上で両手を握った。まだ怖かった。リュシアンを見ると、母の熱い手を思い出すかもしれない。母がいないことを、もっとはっきり知ってしまうかもしれない。それでも、リュシアンは母から何も奪っていない。母が命をかけて産んだ子だ。怖いまま、そばにいることはできる。母はそう言った。
部屋の扉が静かに開き、祖母が入ってきた。朝の光の中で見る祖母は、夜より少し年を取ったように見えた。背筋は伸びている。髪も乱れていない。けれど、顔の色が薄く、手には小さな箱があった。
「エレオノーラ」
エレオノーラは立とうとした。祖母は止めなかった。膝に力が入りきらず、ナディアがそっと支える。エレオノーラはそれを受け入れた。祖母は近くへ来て、箱を差し出した。
「セシリアが、あなたへ残していたものです」
箱は小さかった。手のひらに乗るほどの大きさで、薄い布に包まれている。エレオノーラは両手で受け取った。重くはない。けれど、持つと胸が痛かった。開けてよいのか分からず祖母を見ると、祖母は静かに頷いた。
布をほどくと、中には真珠のブローチが入っていた。母がよく身につけていたものだった。王宮へ行く日の朝、髪を整えてくれた母の胸元にあった。白い真珠は朝の光の中で淡く光り、派手ではないのに、母の声とよく似合っていた。エレオノーラは指先で触れた。冷たかった。母の手とは違う。けれど、その冷たさの中に、母のいた時間が閉じ込められているようだった。
「手紙もあります」
祖母が言った。
「けれど、それは今すぐ読まなくてよい。読めるときに読みなさい」
エレオノーラは頷いた。今読めば、文字が見えないと思った。真珠のブローチだけで、胸の中はいっぱいだった。
「お祖母様」
「何です」
「お母様は、もう……」
言葉が続かなかった。もう、いないのですか。もう、声を聞けないのですか。もう、困ったと言ってよいのですよと、言ってくれないのですか。どれも言えなかった。
祖母は、答えを急がなかった。エレオノーラの手の中の箱を見て、それからエレオノーラの顔を見た。
「セシリアは、もうこの部屋へは戻りません」
その言い方は残酷ではなかった。けれど、逃げ道もなかった。エレオノーラの目に、また涙がたまった。
「ですが、あなたが持っている言葉の中に、あの子は残ります。だから、忘れてはなりません。泣いても、立てなくても、忘れてはなりません」
忘れてはなりません。
ヴィクトルの言葉も、母の言葉も、祖母の言葉も、同じ響きで胸に落ちてきた。忘れるな。忘れてはなりません。忘れたくない。エレオノーラは真珠のブローチを握りしめそうになって、慌てて力を抜いた。壊してはいけない。強く握れば、真珠に傷がつくかもしれない。母のものなのに、母の代わりではない。けれど、今はこれを持つしかなかった。
リュシアンの泣き声が、また聞こえた。
今度はさっきより少し近かった。誰かが部屋の前を通ったのかもしれない。エレオノーラは箱を胸に寄せたまま、その声を聞いた。怖い。やはり怖い。母がいなくなった朝に、弟の声がする。けれど、その声は生きている声だった。母が残した命の声だった。
「お祖母様」
「何です」
「わたくし、リュシアンに会いに行きます。今すぐではなくても……支度をしてから」
祖母はその朝、初めてほんの少しだけ目を細めた。泣いている孫娘を褒めるような顔ではない。ただ、言葉を受け取った顔だった。
「それでよろしい」
ナディアがすぐに動いた。顔を洗う湯を用意し、目元を冷やす布を取ってきた。エレオノーラは箱を膝に置き、真珠のブローチをもう一度見た。朝の光を受けても、その真珠はまぶしくは光らなかった。静かに、そこにあった。母のように。
母のいない朝は、何もかもが壊れてしまうわけではなかった。扉は開き、湯は運ばれ、リュシアンは泣き、ナディアは支度をし、祖母は立っていた。だからこそ、母だけがいないことが分かった。世界が止まってくれないから、欠けたものの形がはっきりした。
エレオノーラは、その朝、泣き止んだわけではなかった。強くなったわけでもなかった。ただ、母の真珠のブローチを小さな箱に戻し、ナディアが差し出した布で顔を拭いたあと、リュシアンのいる部屋へ行くために立ち上がった。膝はまだ少し震えていて、箱を置いた手にも力が残っていた。けれど、廊下の向こうから聞こえる弟の泣き声を聞いていると、母が残した言葉が、胸の奥でまだ消えずにあることだけは分かった。怖くなったら、怖いまま抱いてあげなさい。声に出せるほど整理されたものではなかったが、エレオノーラはその言葉を胸の内側に置いたまま、ナディアの支えを受けて、泣き声のするほうへ一歩を踏み出した。




