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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第五話 正しい言葉は、少し冷たい①

妃教育が始まってから、エレオノーラの朝は、以前より少しだけ早く形を変えた。目を覚ましてすぐに隣国語の教本へ手を伸ばすことは減り、代わりに、前夜のうちに机へ出しておいた家系図や席次の板を、ナディアが朝の光の入る位置へ移してくれるようになった。書物の表紙に落ちる光の角度だけでも、文字の見え方は変わる。封蝋の見本は、赤、青、黒、金茶と小さく並び、それぞれに王家、神殿、高位貴族、私的な書状の違いを示す印が押されている。まだ七歳の指には、その硬さも重さも少し大げさに思えたが、祖母はそれを子どもに持たせるには早いとは言わなかった。


知らないまま王宮へ立たせないためのものです、と祖母は言った。父は、分からぬまま王宮へ持ち込むなと言った。母は、言葉の形が変わっても、その中に入れるものまで失くさなくてよいと言った。三つの言葉は、朝の支度の中でも、食卓で匙を持つときにも、髪を結われるときにも、ときどき別々の方向から戻ってきた。


ナディアへの言葉遣いも、まだ完全に自分のものになったわけではなかった。


「ナディア、今日は……銀の髪飾りを。王妃殿下の小書斎へ伺うのだから、派手すぎないものにして」


言い終えたあと、エレオノーラは鏡越しにナディアの表情を見た。命じたつもりはある。けれど、その命じ方がきつく聞こえなかったか、どこかで冷たく響かなかったかが、まだ気になってしまう。鏡の中のナディアは、いつものように手を止めず、浅い引き出しから銀の細工をほどこした小さな髪飾りを選び出した。青灰色の石が一粒だけ埋め込まれている。目立ちすぎず、けれど光を受けると、エレオノーラの瞳と同じ色をほんの少し返すものだった。


「かしこまりました、お嬢様。今日の装いには、こちらがよろしいかと存じます」


その返事は、少しも傷ついたようには聞こえなかった。エレオノーラはほっとしかけ、それが顔に出る前に、唇を結んだ。顔を整えなければ、と思ったのではない。けれど、ナディアが侍女として受け取ってくれた言葉を、自分の不安でまた揺らしてしまうのは違う気がした。彼女は鏡の中の自分を見つめ、肩に入っていた力を少しだけ抜いた。


「……今の言い方は、強すぎませんでしたか?」


それでも、完全には飲み込めなかった。問いは小さく、幼いままこぼれた。ナディアは、銀の髪飾りを留める指先を乱さず、鏡の中でほんの少しだけ目を細めた。


「いいえ、お嬢様。お役目を頂ける言葉でございました」


「お役目を……」


「はい。何を整えるべきか分かりましたので、わたくしも迷わずに済みます」


ナディアの声は穏やかだったが、甘やかすためだけのものではなかった。エレオノーラは、その言葉を胸の内側へそっと置いた。迷わずに済む。自分が役目をはっきり渡すことで、ナディアが侍女として動きやすくなる。祖母が言っていたことは、こういう小さなところにもつながるのだろう。


その朝のドレスは、白に近い淡い水色だった。王妃の小書斎へ招かれた日なので、儀礼の間へ立つほど重い礼装ではない。けれど、王太子殿下の婚約者として呼ばれる以上、ただの訪問着では足りない。袖口には白糸で小さな蔦模様が刺され、腰のリボンは細く、歩くたびに布が光をやわらかく含んだ。ナディアが髪を半分だけ結い上げ、残りを背へ流すと、鏡の中の少女は、まだ幼さを残しているのに、どこか近づきすぎることをためらわせるほど整って見えた。透けるような白い肌、長い睫毛、静かに結ばれる唇、青灰色の瞳の奥に朝の光が入るたび、鏡の前に立つ少女は、かわいらしいという言葉だけでは少し足りなくなる。


ナディアは一瞬だけ手を止め、それから髪の流れを直した。その沈黙で、エレオノーラは、侍女が何を思ったのかを少しだけ知った気がした。美しい、と言葉にすれば、主人を飾り物のように扱った響きになる。けれど、何も思わなかったわけではない。そういう沈黙が、支度部屋の中にはたびたびあった。


「お嬢様、王妃殿下の小書斎では、王妃付きの女官様が控えておられるはずです。お茶が熱すぎるようでしたら、無理にお召し上がりにならず、わたくしへ目をお向けくださいませ」


「王宮で、わたくし付きの侍女が口を出してもよいのですか?」


「口を出すのではございません。お嬢様の支度とお加減を見ている者として、必要な時に動けるよう控えるのでございます」


エレオノーラは頷いた。昨日までなら、申し訳ないと思ったかもしれない。けれど今は、ナディアに任せることが、自分の弱さを見せることとは少し違うのだと分かり始めている。もちろん、まだ分かりきってはいない。胸の奥では、誰かに手を煩わせたくないという気持ちが時々顔を出す。それでも、妃教育で学んだ言葉は、彼女の手のひらに一つずつ別の形を与えていた。


朝食の席で、セシリアは娘の髪飾りを見て、少しだけ微笑んだ。


「その銀の飾りは、今日のあなたによく似合いますね」


「ナディアに選ばせました」


エレオノーラはそう答えてから、言葉の形を確かめるように一拍置いた。母は、その一拍に気づいたはずだった。けれど、すぐには何も言わない。匙を置き、柔らかく頷いた。


「よい任せ方でしたか?」


「……はい。ナディアが、迷わずに済むと言ってくれました」


「それなら、よかった」


母はそれ以上を急がせなかった。エレオノーラは、温かいミルクをゆっくり飲んだ。喉を通る甘さのあとで、今日、王宮でアレクシスに会うことを思い出す。前に会ったとき、彼は古い称号をきちんと読めたことを喜んでいた。今日も、きっと明るく笑ってくれるだろう。そう思うと胸の中が少し軽くなったが、その軽さの下には、妃教育で覚えた言葉の重さもあった。


殿下を支えることは、殿下の代わりに立つことではない。


父も祖母も、言い方は違えど、同じことを教えているようだった。アレクシスが困ったとき、すぐに答えを差し出すことは、役に立つことのように見える。けれど、それが本当に彼のためになるのか。七歳のエレオノーラには、まだすべては分からなかった。分からないまま、王宮へ向かう馬車に乗った。


馬車の窓から入る光は、季節が少し進んだせいか、以前より白く見えた。石畳の音は規則正しく、王宮へ近づくにつれて、御者の手綱さばきが少し慎重になる。セシリアは隣に座り、娘の手袋の留め具が緩んでいないかを確かめた。母の指はいつも温かい。王宮へ行く日は、その温かさを手袋越しに受け取るだけで、エレオノーラは少し落ち着いた。


「今日は、王妃殿下の小書斎でしたね」


「はい。王妃殿下からは、殿下とともに次の茶会の席次を学ぶようにと伺っています」


「緊張していますか?」


「少しだけ」


「少しだけと言えるなら、今日はよい日です」


母はそう言った。エレオノーラは母の横顔を見上げた。どうしてですか、と聞きかけ、母が窓の外を見ていることに気づいて、その問いを飲み込んだ。母の瞳には、王宮へ向かう娘だけでなく、もっと先の何かが映っているように見えるときがある。けれど、エレオノーラはまだ、その遠さを言葉にできない。だから黙って、手袋の指先をそろえた。


王宮に着くと、控えの侍従が馬車の扉を開けた。王宮の空気は、屋敷とは違う。石の冷たさ、花の香り、磨かれた床に落ちる足音、遠くで誰かが名を告げる声。それらが混じり合って、ここでは何気ない動きにも意味がつくのだと知らせてくる。エレオノーラはセシリアの少し後ろを歩き、ナディアはさらに控えた位置でついてくる。王妃の小書斎へ通されるまでの廊下で、すれ違った女官たちが礼をした。その目が一瞬だけ、エレオノーラの髪飾りと顔に留まる。


彼女は、前より少しだけその視線を知っていた。美しいものを見る視線。王太子の婚約者を見る視線。公爵令嬢の振る舞いを確かめる視線。そのどれもが同じようで、少しずつ違う。すべてを受け止めるには幼すぎたが、すべてに気づかないふりをするには、もう少しだけ王宮を知り始めていた。


小書斎へ入ると、王妃は窓際の席にいた。淡い菫色のドレスをまとい、手元には刺繍ではなく、数枚の紙が置かれている。王妃付きの女官が一人、その少し後ろに控え、机の上には小さな席次板と、茶会で使う招待者名簿が並んでいた。アレクシスは先に来ていたらしく、椅子に座っていたが、エレオノーラを見つけるとぱっと顔を上げた。


「エレオノーラ! 来たんだな!」


その声は、王妃の小書斎には少し明るすぎるほどだった。けれど、アレクシスらしかった。金の髪は今日も光をよく拾い、青い瞳は驚くほどまっすぐにこちらを見ている。華やかな少年だった。王宮の壁紙や銀の茶器、白い窓枠の中にいても、彼だけは陽の当たる庭からそのまま入ってきたように見える。笑うと、整った顔立ちがさらに近づきやすくなり、周囲の空気まで彼のほうへ少し傾く。


エレオノーラは礼をとった。


「アレクシス殿下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」


「また固いなあ。ここは母上の小書斎だろう? そんなに緊張しなくてもいいのに!」


王妃が小さく咳払いをしたわけではない。ただ、視線を少しだけアレクシスへ向けた。それだけで、アレクシスはしまったという顔をして、椅子に座り直した。


「……失礼しました、母上」


「よろしいのですよ。けれど、場に合わせた言葉を選ぶことも、今日の学びの一つです」


王妃の声は柔らかかったが、流れて消えるものではなかった。アレクシスは少しだけ口を尖らせかけたが、エレオノーラが見ていることに気づくと、すぐに笑顔を作った。


「今日は席次だって聞いた。エレオノーラはもう習ったのか?」


「少しだけです。お祖母様に、王宮で立つ位置には複数の意味があると教わりました」


「複数の意味?」


「はい。どなたのお許しでその場所に立つのか、どなたとの距離を示すのか、周囲の方々へ何を示すのか……」


言いながら、エレオノーラは自分の声が少し硬いことに気づいた。王妃の前だからなのか、妃教育で覚えた言葉を間違えないようにしているからなのか、どちらか分からない。アレクシスは目を丸くした。


「うわ……本当に難しいことを習ってるんだな! 僕なら途中で眠くなりそうだ」


「アレクシス」


王妃の声が、今度は少しだけ低くなった。アレクシスは慌てて姿勢を正す。


「眠くなりません! たぶん!」


その言い方に、エレオノーラは思わず少しだけ笑いそうになった。けれど、王妃の前で声を漏らすのをためらい、唇の端だけがわずかに動いた。アレクシスはそれを見つけて、嬉しそうに身を乗り出した。


「今、笑っただろう?」


「いえ、その……」


「笑った! ほら、そういう顔のほうがいい。エレオノーラは、最近ずっと難しい顔をしてる」


言われて、エレオノーラは返事に迷った。難しい顔。自分ではそのつもりはない。けれど、妃教育が始まってから、いつ言葉を間違えるか、どの呼称を使うべきか、誰の前でどこまで柔らかくしてよいかを考える時間が増えた。そうすると、顔も静かになるのだろう。母にも、きちんとしようとすると顔まで静かになると言われたことがある。

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