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婚約破棄された悪役令嬢は、白銀の大公に最愛を捧げられる  作者: ごゅみ
第一部 婚約破棄

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第四話 妃教育③

午後になって父が戻ると、エレオノーラは書斎へ呼ばれた。オルドリックは昨日の式典後、国王や北方大公との話が長引いたため、屋敷へ戻ったのは遅かったらしい。書斎の机には封のされた書状がいくつも置かれ、家令ローレンが先ほどまでいた気配が残っていた。父は娘を見ると、いつものようにしばらく黙った。その沈黙は、今日の教育がもう彼の耳に入っていることを示しているようだった。


「妃教育が始まったと聞いた」


「はい、お父様」


「疲れたか」


問いは短かった。エレオノーラは反射的に大丈夫ですと言いかけたが、朝、足が重いと言えたことを思い出した。父の前で疲れたと言うのは、母やナディアの前より少し難しい。オルドリックは優しいだけの言葉を返す人ではないからだ。けれど、だからこそ嘘もつきにくかった。


「少しだけ。でも、昨日の式典よりは、疲れていません」


父は頷いた。叱られなかったことに、エレオノーラは少し安堵した。


「母上の教えは重い。だが、お前がいずれ王宮に立つなら、軽い教えだけでは足りぬ」


「はい」


「分からないことは、分からないままにするな。分からぬと言うことを恥じるな。ただし、分からぬまま王宮へ持ち込むな」


父の言葉は、母とも祖母とも違う。母は分からないことを急いで別の名前にしなくてよいと言う。祖母は知らないまま王宮へ立たせないために教えると言う。父は、分からぬと言うことを恥じるな、けれど分からぬまま持ち込むなと言う。三人とも違う道から、同じ場所へエレオノーラを導いているようだった。


「お父様、わたくしは、冷たく見えるようになるでしょうか」


父は、そこで初めて少しだけ眉を動かした。意外な問いだったのかもしれない。エレオノーラは、自分でも父にこれを聞くとは思っていなかった。だが、祖母の前で聞いたときから、その答えが胸に残っていた。


「誰に」


「王宮の方々や、使用人や、殿下に」


オルドリックは机の上の封蝋に目を落とし、しばらく考えた。彼は答えを急がない。娘が幼くても、幼い問いとして片づけない。


「見えることはあるだろう」


祖母と同じ答えだった。エレオノーラは少しだけ目を伏せた。父は続けた。


「だが、エレオノーラ。冷たく見えることを恐れて、必要な言葉を失うな。公爵家の者が、誰にでも同じように笑い、誰にでも同じように柔らかくするなら、それは優しさではなく、責任を曖昧にすることになる」


「責任を」


「お前がナディアに命じるとき、ナディアは侍女として動く。お前が家令に問うとき、家令は家令として答える。お前が王太子殿下に進言するとき、それは婚約者として、公爵家の娘としての重みを持つ。言葉は、人をその場に立たせる。お前自身もだ」


言葉は、人をその場に立たせる。エレオノーラはその言葉を胸の中で受け取った。ヴィクトルは、座らないのか、という言葉で彼女を椅子へ座らせた。祖母は、王家へ入る者の教育です、という言葉で、彼女を妃教育の前に立たせた。父は、お前、という言葉で娘へ踏み込んでくる。ナディアに、こちらへ置いて、と言ったとき、ナディアは侍女として迷いなく動いた。言葉は、本当に人を立たせたり、座らせたり、動かしたりするのだ。


書斎を出るとき、父は最後に言った。


「疲れたなら休め。休むことも、務めを続けるための判断だ」


その言葉に、エレオノーラは昨日の椅子を思い出した。父はヴィクトルの言葉を知っているのだろうか。母から聞いたのかもしれないし、王宮の誰かから伝わったのかもしれない。けれど、父はその名を出さなかった。ただ、休むことも判断だと言った。エレオノーラは礼をし、書斎を出た。


夕方、母の私室へ寄ると、セシリアは窓辺で手紙を書いていた。薄い紙に流れる文字は、母の国のものだった。エレオノーラが入ると、母は筆を置き、疲れましたかと尋ねた。父と同じ問いなのに、母の声ではまるで違って聞こえる。エレオノーラは少し笑いそうになったが、笑う前に、今日覚えたことを思い出した。相手によって言葉は変わる。母には、父に言うよりも少し柔らかく言ってよい。


「少し疲れました。でも、嫌ではありませんでした」


「そう」


母は嬉しそうでもあり、少し寂しそうでもあった。娘が妃教育を始めたことは、成長の一歩であると同時に、王宮へ近づく一歩でもある。セシリアはそれを分かっているのだろう。エレオノーラは母の隣に座り、今日の祖母の言葉を話した。使用人へへりくだることは役目を曖昧にすること。ナディアに本を取ってもらう言い方を直したこと。茶をこちらへ置いて、と言えたこと。


母は最後まで聞いてから、エレオノーラの手を取った。


「寂しくはありませんでしたか」


その問いに、エレオノーラは驚いた。祖母にも父にも聞かれなかったことだった。正しいか、疲れたか、分かったかではなく、寂しかったか。そう聞かれた途端、胸の奥で小さく隠れていたものが動いた。


「少し」


言ってから、目を伏せた。


「ナディアに冷たくしたわけではないと分かっています。でも、昨日までの言い方とは違いました」


「変わるときには、少し寂しさもあります」


母はそう言い、エレオノーラの手を包んだ。


「けれど、あなたがナディアを大切に思っていることまで、変えなくてよいのです。言葉の形が変わっても、その中に入れるものまで失くさなくてよいのですよ」


それを聞いて、エレオノーラはようやく深く息をした。祖母は形を教えた。父は重さを教えた。母は、その中に入れるものを失くさなくてよいと教えた。三つが揃うと、今日一日で覚えたことが少しだけ自分の中へ収まるようだった。


夜になり、ナディアが寝室の支度を始めた。暖炉の火が小さく整えられ、机の上には今日使った家系図の写しと、王宮の席次を示す板が置かれている。隣国語の教本もそばにあった。エレオノーラはそれを見て、いつものように眠る前に少し読もうかと思ったが、父の言葉と母の言葉が戻ってきた。疲れたなら休め。言葉の形が変わっても、その中に入れるものまで失くさなくてよい。


ナディアが寝台の帳を整えているところへ、エレオノーラは声をかけた。


「ナディア」


「はい、お嬢様」


「明日の妃教育で使う家系図を、朝の机に出しておいて。封蝋の見本も一緒に。隣国語の教本は、今日は下げて」


ナディアは一瞬だけ目を上げた。驚いたのではない。たぶん、言葉の変化を受け取ったのだ。エレオノーラの声は、朝より少しだけ自然だった。命じている。けれど、突き放してはいない。任せている。ナディアは深く礼をした。


「かしこまりました、お嬢様。隣国語の教本は、明日の午後にお戻しいたしますか」


エレオノーラは少し考えた。明日の午後なら、妃教育のあとに少し休んでから読めるかもしれない。


「ええ。午後の茶のあとに」


「承知いたしました」


ナディアは教本を手に取り、書棚へ戻した。家系図と封蝋の見本は、明日の朝に出しやすいよう、机の端へ揃えておく。彼女の動きは静かで、迷いがなかった。エレオノーラはそれを見ながら、自分がナディアから何かを奪ったのではないことを少しずつ理解した。むしろ、ナディアが侍女として動く道を、自分の言葉で作ったのだ。


寝台へ入る前、エレオノーラは鏡の前で一度立ち止まった。夜の灯りの中で、髪をほどいた自分が映っている。朝の銀のピンも外され、礼装もなく、ただ七歳の少女の顔がそこにあった。けれど、昨日までとまったく同じではない。美しいと母に言われた顔。冷たく見えることもあると祖母と父に言われた顔。王太子の近くに立ち、北方大公家の少年に疲れを見抜かれた顔。そして今日、初めて侍女に主人として言葉を渡した顔。


冷たくなりたいわけではなかった。誰かを遠ざけたいわけでもない。けれど、王家へ入る者の教育が始まった以上、同じままではいられない。エレオノーラは鏡の中の自分を見つめたまま、口の中で小さく言葉を繰り返した。


王家へ入る者の教育。


それは、彼女を飾るためのものではなく、彼女の声の形を変えていくものだった。誰に向けて、どの言葉を選ぶのか。どこで笑い、どこで黙り、どこで任せ、どこで止めるのか。まだ何も分からないことばかりだったが、今日、最初の一歩は始まった。


寝台へ入ると、足の重さは昨日より少し軽かった。天蓋の布が揺れ、部屋の隅で暖炉が小さく鳴る。ナディアが最後の灯りを落とす前に、エレオノーラはもう一度声をかけた。


「ナディア」


「はい」


「今日は、ありがとう。支度も、お茶も、ちょうどよかったわ」


ナディアは少しだけ微笑んだ。侍女として控えめに、けれど確かに。


「お嬢様にそう仰っていただけるなら、何よりでございます」


その返事を聞いて、エレオノーラは胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。言葉を変えても、失わずにいられるものがある。祖母の教えも、父の重さも、母の柔らかさも、ナディアの忠実な手も、どれか一つを選んで捨てるものではない。全部を持ったまま、形を整えていくのだ。


眠りに落ちる少し前、彼女は明日の机に置かれる家系図と封蝋の見本を思い浮かべた。隣国語の教本は書棚に下げられている。アレクシスの役に立ちたいという願いは、今も消えていない。けれど、その願いだけで夜を埋めるのではなく、明日は自分の立つ場所を学ぶのだと思った。王宮の白い廊下、南庭の水音、儀礼の間の光、ヴィクトルの短い声。それらが遠くに並ぶ中で、エレオノーラは初めて、王太子の隣に立つためには、ただ誰かを支えるだけでは足りないのだと、ほんの少しだけ分かり始めていた。

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