第五話 正しい言葉は、少し冷たい②
「妃教育が始まりましたので、まだ慣れないことが多いのです」
「妃教育かあ。君がますます王太子妃らしくなるのは、すごいことなんだろうけど……」
アレクシスはそこで少し声を落とした。落としたと言っても、彼はまだ幼く、隠すことが上手いわけではない。その声はエレオノーラに届いた。
「僕は、前みたいに話してくれるほうが好きだけどな」
好き、という言葉に、エレオノーラは一瞬だけ手袋の中の指を動かした。恋の意味ではないことは分かっている。幼い二人の間にあるのは、婚約者としての約束と、王宮で少しずつ積み重なっている親しみだ。けれど、好きと言われると、胸の中がふわりと温かくなる。それと同時に、前みたいに、という言葉が、小さな棘のように残った。
前みたいに話すことは、悪いことだったのだろうか。今の言葉は、そんなに違って聞こえるのだろうか。問いが浮かんだが、王妃の前でそれを口にすることはできなかった。エレオノーラは礼儀の中に言葉を戻した。
「殿下に失礼のないよう、努めます」
「そういうところだよ!」
アレクシスは思わず声を上げ、それからまた王妃を見て、しまったという顔をした。王妃は叱りはしなかった。ただ、紙を一枚取り上げ、机の中央へ置いた。
「では、今日はその言葉の違いも含めて学びましょう。アレクシス、来月、隣国の使節団が王宮へ参ります。その席で、隣国伯爵家の令嬢と、王国の侯爵夫人が同時に挨拶を求めた場合、あなたはどちらを先に通しますか?」
アレクシスは、先ほどまでの表情を少し引き締めた。王妃の問いは、机上の遊びではない。茶会の席次、挨拶の順番、国の内外の貴族をどう扱うかは、王太子が軽く答えてよいものではない。エレオノーラはそのことを、妃教育で少しだけ聞いていた。だからこそ、心の中ではすぐに答えの候補が浮かんだ。隣国の使節団としての立場、国内侯爵夫人の席次、王妃主催の茶会であること、誰が招いたのか。順番を決めるために見るべきものはいくつもある。
アレクシスは紙を見て、眉を寄せた。
「ええと……隣国の令嬢、かな。使節団だし」
王妃は頷きも否定もしなかった。
「では、理由は?」
「理由……」
アレクシスの視線が、自然にエレオノーラへ向いた。その目を見て、エレオノーラの胸が小さく揺れた。いつもの目だった。君なら分かるだろう、という目。困ったときにこちらを見る目。頼られると嬉しい。そう思う心はまだ消えていない。むしろ、彼が自分を頼ってくれることは、今でも温かかった。
「エレオノーラ、これは君のほうが得意だろう? 教えてくれ!」
明るい声だった。悪気はない。恥ずかしげもなく、自分を頼ることを彼は自然に言った。以前のエレオノーラなら、すぐに答えていただろう。王妃の前で殿下が困らないように、隣国使節団としての意味を短く説明し、国内侯爵夫人への配慮も添えただろう。そうすれば、アレクシスはほっとして笑う。その笑顔を見れば、彼女も嬉しくなる。
けれど、祖母の声が戻ってきた。
王太子殿下の婚約者としてその近くに立つ以上、殿下を立てる言葉、王妃殿下へ返す言葉、国王陛下の前で控える言葉、使用人へ命じる言葉、そのすべてを同じにしてはなりません。
そして父の声も重なった。
お前が王太子殿下に進言するとき、それは婚約者として、公爵家の娘としての重みを持つ。
ここで自分が答えを先に言えば、アレクシスは助かる。けれど、殿下が答えるべき問いを、彼女が代わりに受け取ることになる。王妃の問いは、エレオノーラへのものではない。アレクシスへのものだ。
エレオノーラは、手袋の中で指をそろえた。
「殿下。まずは、殿下のお考えをお聞かせください」
言葉は、思っていたより静かに出た。
アレクシスは、目を瞬かせた。
「え……?」
その声を聞いた瞬間、エレオノーラの胸の奥が少し痛んだ。驚かせた。困らせた。そう思った。けれど、今ここで慌てて答えを足せば、結局同じことになる。彼女は息を整えた。
「わたくしは、殿下のお考えを確かめるお手伝いならできます。けれど、殿下のお答えを、先にわたくしが申し上げることはできません」
「どうして? 前なら、すぐ教えてくれたのに……」
アレクシスの声は、責めているというより、戸惑っていた。幼い眉が少し寄り、口元が迷子のように揺れる。その表情を見て、エレオノーラは答えを言ってしまいたくなった。違うのです、殿下を困らせたいのではありません、と言いたかった。けれど、王妃が見ている。女官も控えている。ナディアも少し離れたところで、こちらを見守っている。ここは王宮の小書斎で、ただの庭ではない。
「殿下がお答えになるべき問いだからです」
言葉は正しかった。けれど、正しい言葉は、口から出た瞬間に少し冷たく響いた。少なくともエレオノーラには、そう聞こえた。アレクシスは、助けを求めようとして伸ばした手を途中で下ろされたような顔をした。エレオノーラはその顔を見て、喉の奥が詰まるのを感じた。
王妃は、しばらく二人を見ていた。その沈黙の間に、窓の外の鳥の声が小さく聞こえた。やがて、王妃はアレクシスへ向き直った。
「アレクシス。エレオノーラ嬢の言う通りです。これはあなたへの問いです。彼女はあなたの婚約者であり、いずれ支えとなる者ですが、あなたの答えを代わりに持つ者ではありません」
アレクシスは、唇を少し結んだ。
「……はい、母上」
「もう一度考えなさい。隣国伯爵家の令嬢を先に通すと考えたなら、その理由は何ですか?」
アレクシスは紙を見下ろした。目が泳ぎかけたが、今度はエレオノーラを見なかった。自分で考えようとしている。エレオノーラはその横顔を見ながら、ほっとするべきなのか、さらに胸を痛めるべきなのか分からなかった。
「隣国の使節団として来るから……王妃殿下の茶会では、国内の家格だけではなく、客人としての扱いを重く見るべき、だから……?」
最後は少し疑問形になった。けれど、アレクシスは自分で言った。王妃は今度こそ、ほんの少し頷いた。
「悪くありません。ただし、国内の侯爵夫人を軽んじてよいわけではありません。エレオノーラ嬢、あなたなら、そのあとをどう整えますか?」
急に自分へ向けられた問いに、エレオノーラは背筋を伸ばした。けれど、それは代わりに答えるための問いではなかった。アレクシスが出した答えのあと、婚約者として補佐するならどうするか。そういう問いだと分かった。
「隣国伯爵令嬢を使節団の一員として先にお通しするのであれば、王国の侯爵夫人には、王妃殿下のお近くに席を整えることで、国内の家格を軽んじたわけではないと示します。挨拶の順番と席の距離を分けて扱えば、どちらか一方を落とすことにはなりにくいかと存じます」
言い終えたあと、エレオノーラは自分の声が震えていなかったことに気づいた。王妃は、静かに目を細めた。
「よろしい。今の返答は、王太子殿下の婚約者として正しい助け方でした」
正しい助け方。その言葉に、エレオノーラは礼をした。
「ありがとうございます、王妃殿下」
褒められたはずだった。祖母に認められたときと同じように、胸の中に小さな灯りがともってもよかった。けれど、隣を見ると、アレクシスが少しだけ静かになっていた。怒っているわけではない。拗ねているとまでも言えない。ただ、先ほどの明るさが少し影に入っている。
「正しい助け方、か……」
彼は小さくつぶやいた。エレオノーラは返事をしようとして、言葉を見つけられなかった。王妃の前で、殿下、違うのです、と言うのはおかしい。何が違うのかも、まだ分かっていない。自分は正しいことをした。王妃はそう言った。アレクシスも自分で答えた。ならば、何も悪いことはないはずだった。
それでも、胸の奥が少し重い。
その後の茶席は、穏やかに進んだ。王妃はアレクシスにいくつか席次の問いを出し、エレオノーラには補佐としてどう言葉を添えるかを尋ねた。アレクシスは最初ほど彼女へ助けを求めなかった。きちんと自分で考えようとしている。そのたび、王妃は静かに頷き、足りないところを直した。エレオノーラは、殿下の答えを先に言わないように気をつけながら、問いを返したり、言葉の順番を整えたりした。
「殿下、その場合、最初に見るべきなのは家格でしょうか。それとも、どなたの名で招かれたかでしょうか?」
「えっ……招いた人?」
「はい。王妃殿下の茶会であれば、王妃殿下の御名のもとに整えられます」
「なるほど! それなら、さっきの答えも少し変わるのか?」
アレクシスの声に、少し明るさが戻った。エレオノーラはほっとした。すぐに答えを渡さなくても、彼は考えられる。むしろ、自分で気づいたときの彼は、以前より嬉しそうに見えた。けれど、彼が一度戸惑った顔は、まだ彼女の中に残っていた。
茶が運ばれてきたとき、エレオノーラは喉が乾いていることに気づいた。以前なら、王妃の前で先に杯を取ることをためらい、喉の渇きに気づかないふりをしたかもしれない。けれど、昨日からのいくつもの言葉が、足元から戻ってくる。立ち続けることだけが務めではない。休むことも、務めを続けるための判断だ。誰かの前で乱れないためには、乱れる前に整えなければならない。
エレオノーラは、女官が茶を置いたあと、王妃が杯を取るのを待ってから、自分もそっと杯に指を添えた。熱すぎないかを確かめ、ひと口飲む。香草の香りがした。喉が潤うと、頭の奥の緊張が少しだけゆるむ。ナディアが離れた場所で、ほんのわずかに頷いたように見えた。
王妃は、その小さな動きも見ていたらしい。
「エレオノーラ嬢」
「はい、王妃殿下」
「今日は、よく自分の呼吸を見ていますね」
呼吸を見ている。そう言われて、エレオノーラは少し戸惑った。呼吸は、見るものなのだろうか。けれど王妃の言葉は、責めているのではなかった。
「王宮で長く務める者は、自分が乱れる前に整えることも覚えねばなりません。あなたの祖母は、よい始め方をなさっているようです」
祖母を褒められたのだと分かり、エレオノーラは礼をした。
「お祖母様に、お伝えいたします」
「ええ。ですが、あなた自身も受け取りなさい」
「わたくしも、ですか?」
「ええ。学んだことを、その場で使うのは容易ではありません」
王妃の声は静かだった。アレクシスも、それを聞いていた。エレオノーラは、嬉しいより先に、少し困ってしまった。褒められているのに、隣でアレクシスがどう思っているかが気になってしまう。彼がまた、前のほうがよかったと思っているのではないか。そう考えると、王妃の言葉をそのまま胸へ入れることができなかった。




