第四話 妃教育①
王宮の儀礼の間から戻った夜、エレオノーラは眠りに落ちるまでに、何度も自分の足の裏へ意識を戻した。そこにはまだ、磨かれた石床の硬さが残っているようだった。青い礼装を脱ぎ、髪をほどかれ、夜着に着替えたあとでさえ、身体のどこかがまだ王宮に立っている。天蓋の内側で布が静かに揺れているのを見ても、寝台の柔らかさを背中に受けても、耳の奥には広間の低いざわめきと、アレクシスが古い称号を読み上げた声と、ヴィクトルが短く告げた、座らないのか、という声が代わる代わる戻ってきた。
褒められたことは、嬉しかった。王太子殿下をよく支えていると貴婦人に言われたとき、胸の中に灯った温かさは嘘ではなかった。アレクシスが、君が練習に付き合ってくれたからだ、と笑ったときも、その笑顔を見てよかったと思った。彼が自分の力で読み終えたことも、彼が間違えずに済んだことも、たしかに喜ばしいことだった。けれど、その喜びの隣に、疲れているなら座れと言われたことの落ち着かなさが残っていた。誰かの役に立つ自分を見てもらうことには少しずつ慣れてきたのに、役に立つ前の自分、立っているだけで足が重くなり、果実水を飲みそびれて喉が乾いていた自分を見られたことには、どう名前をつければよいのか分からなかった。
翌朝、寝室の帳が引かれる音で目を覚ましたとき、窓の外は薄く白んでいた。前日の疲れが身体の奥に残っているせいか、エレオノーラはすぐには起き上がれなかった。目を開けたまま、天蓋の布の縁を見ていると、ナディアがいつもより少し静かな足取りで近づいてくる。彼女は主人が目を覚ましていることに気づくと、寝台の脇で深く礼をとった。
「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがでございますか」
いつもの問いだった。けれどその朝のナディアの声には、前日の支度や式典を覚えている人の慎重さがあった。エレオノーラは返事をしようとして、まず自分の身体を確かめた。熱はない。喉も痛くない。ただ、足が少し重い。肩のあたりにも、礼装を長く着ていたあとのこわばりが残っている。前なら、すぐに大丈夫ですと答えただろう。言えばその場が整う。侍女を困らせずに済む。だが、昨日、ヴィクトルに立ち方が変わっていたと見られたことを思い出すと、何もなかったように答えるのが少しだけ難しくなった。
「痛むところはありません。でも、足が少し重い気がします」
言い終えてから、エレオノーラは自分の声を聞いたような気がした。大きな告白ではない。けれど、いつもの大丈夫ですよりは、ずっと正直だった。ナディアは驚いた顔をしなかった。むしろ、待っていた答えを受け取ったように、手元の湯を置き、足元の掛布を少し直した。
「では、今朝は湯を少し温かめにいたします。朝のお支度も、立っていただく時間を短くいたしましょう」
その言い方は、心配で崩れるものではなく、仕事としてすぐに形を整えるものだった。エレオノーラはそれを聞いて、昨日、椅子と果実水がすぐに用意されたときのことを思い出した。誰かが必要なものを判断し、動かす。貴族の屋敷でも王宮でも、そうした小さな判断が積み重なって、場は保たれている。自分が疲れていると言うことは、その場を壊すことではなく、正しく整えるための情報を渡すことでもあるのかもしれない。そう思うと、胸の奥のこわばりが少しだけほどけた。
朝の支度は、いつもよりゆっくり進んだ。ナディアは湯で温めた布を足首に当て、衣装係の侍女には軽い朝のドレスを選ばせた。昨日の深い青とは違い、今日は淡い灰青の柔らかな布で、袖口の刺繍も控えめだった。髪も高く結い上げず、耳の後ろで一部だけをまとめ、残りは肩へ落とす形にされた。鏡の中のエレオノーラは、前日の式典で見せた公爵令嬢の顔よりも幼く、静かだった。それでも、朝の光に淡く透ける灰金の髪と、長い睫毛の影を受ける青灰色の瞳は、寝起きの柔らかさの中でも目を引いた。七歳の少女に向けるには早すぎるほど、顔立ちの線は整っている。鼻筋も、唇の形も、まだ成長の途中にある頬の丸みさえ、どこか不思議に均整を保っていて、ナディアが髪飾りを選ぶ手を迷わせた。
「今日は、髪飾りは要らないのではありませんか」
エレオノーラは鏡の中のナディアに向かって言った。自分では、ただ尋ねたつもりだった。けれど、言い終えたあとで、昨日までと同じように、侍女に対して遠慮を混ぜた言い方をしていることに気づいた。ナディアはそれを気にした様子を見せず、櫛箱の中から小さな銀のピンを選んだ。
「大奥様、アデライード様が、朝食後にお嬢様をお呼びでございます。あまり飾りすぎず、けれど何も挿さないのもお寂しいかと」
「お祖母様が」
その名を聞くと、エレオノーラは背筋を伸ばしかけた。ナディアがすぐに気づき、肩にそっと手を添える。
「まだお支度の途中でございます」
その手つきが、伸ばせとは言っていない、と言ったヴィクトルの声を思い出させたので、エレオノーラは少しだけ力を抜いた。ナディアは銀のピンを一つだけ挿し、髪の流れを整えた。鏡の中で、飾りは目立ちすぎず、けれど朝の光を少しだけ拾った。
「ナディア、あの本を取ってもよいですか」
言ってから、エレオノーラはまた同じ言い方をしたことに気づいた。机の端に置かれた隣国語の教本を指している。朝食の前に少しだけ読みたかったのだ。けれど、ナディアは手を伸ばす前に、ほんの一瞬だけ扉のほうを見た。次の瞬間、控えめなノックが響き、侍女が取り次ぎに入ってきた。
「大奥様、アデライード様がお越しでございます」
アデライードは、返事を待ってから部屋へ入った。朝の訪問にしてはきちんとした装いで、濃い葡萄色のドレスに銀の飾りをつけ、背筋はいつも通りまっすぐだった。彼女が入ってくると、部屋の空気が自然に整う。侍女たちは礼をとり、ナディアも少し下がった。エレオノーラは椅子から立ち上がろうとしたが、祖母が片手をわずかに上げて止めた。
「今日はそのままでよろしい。昨日はよく務めました」
褒められたのだと分かるまで、少し時間がかかった。祖母の声はいつも端正で、甘く崩れることがない。そのため、よく務めました、という言葉も、抱きしめられるような柔らかさではなく、正しく置かれた印のように届く。エレオノーラは座ったまま、姿勢だけを整えて礼をした。
「ありがとうございます、お祖母様」
「ただし、今日からは次の段階へ入ります」
次の段階。その言葉に、エレオノーラの指先が膝の上で動いた。ナディアが用意しかけていた教本はまだ机の端にある。昨日の式典、北方大公家、アレクシスの読み上げ、ヴィクトルの言葉。いくつもの出来事がまだ胸の中で整理されていないうちに、もう次が来るのだと思った。けれど祖母は、彼女を急がせるためではなく、これから見せるものの前に心を置かせるために、少し間を取った。
「エレオノーラ、王宮へ上がり、殿下の近くに立つことが許された以上、あなたはただの公爵令嬢としてだけではいられません。もちろん、まだ婚約のすべてが形になったわけではありませんし、あなたは幼い。ですが、幼いからこそ、今から始めなければならないことがあります」
「妃教育、でしょうか」
言葉にすると、自分でも少し硬く聞こえた。これまで祖母の口から、王太子妃としての教育、王家へ入る者の教育という言葉を断片的に聞いたことはあった。だが、それはいつか来るもののようで、今日から始まるものとしてはまだ遠かった。アデライードは頷いた。
「妃教育という言葉だけを聞けば、礼法や舞踏を整えるもののように思えるかもしれません。けれど、エレオノーラ、あなたがこれから学ぶのは、王太子殿下の隣に飾られるための習い事ではありません。王家へ入る者が、言葉と沈黙の重さを誤らないための教育です」
その言葉が部屋の中に置かれると、侍女たちの気配まで静かになった。ナディアは目を伏せているが、聞こえていないふりをするには近すぎる。エレオノーラは鏡越しではなく、直接祖母を見た。アデライードの瞳は年を重ねても濁っておらず、相手が幼い孫であっても、重い言葉を薄めて渡す気配はなかった。
「王家へ入る者は、礼を覚えるだけでは足りません。席次、家門、婚姻の意味、王家の歴史、神殿儀礼、慈善、書状の扱い、封蝋の重さ、使用人の統率。誰の前でどの言葉を使い、誰に何を任せ、どこで黙り、どこで口を開くべきか。それらを知らずに王宮へ立つことは、目を閉じて階段を下りるようなものです」
エレオノーラは、王宮の長い階段を思い浮かべた。白い石の段。磨かれた手すり。天井の高い廊下。そこで目を閉じて一歩を踏み出せば、たしかにすぐに足を誤るだろう。昨日、立ち続けているうちに自分の足の重さに気づけなかったことも、似ているのかもしれない。自分では立っているつもりでも、誰かに見られなければ分からないことがある。だとすれば、妃教育とは、ただ立派に見えるためのものではなく、自分がどこに立っているかを知るためのものでもあるのだろうか。
「お祖母様、わたくしは、何から始めるのでしょうか」
「言葉からです」
予想していなかった答えだったので、エレオノーラは瞬きをした。礼法でも、王家の歴史でも、席次でもなく、言葉。祖母は視線を少しだけ横へ向けた。その先にはナディアがいる。ナディアは静かに立ったまま、表情を崩していない。だが、エレオノーラは自分が先ほど言った言葉を思い出した。ナディア、あの本を取ってもよいですか。侍女に向けるには、どこかおかしいのかもしれない。けれど、それを祖母に叱られるのだと思うと、胸が少し縮んだ。
アデライードは、怒らなかった。声を荒らげることも、すぐに正すこともしなかった。ただ、エレオノーラの不安を見たうえで、言葉を選んだ。
「誤解してはなりません。ナディアに粗く命じよと言っているのではありません。使用人を人として軽んじる者は、いずれ家を軽んじます。けれど、使用人にへりくだることもまた、その者の役目を曖昧にします。あなたが侍女に許しを求めるように話せば、ナディアは主人に仕える侍女ではなく、あなたに気を遣わせている者のように見えるでしょう」
エレオノーラは、膝の上の手を見た。自分はナディアを困らせたかったわけではない。優しくしたかった。ナディアが自分のために動いてくれるたび、それが当然だと思いたくなかった。だから、取ってもよいか、お願いしてもよいか、と言ってきた。けれど、祖母の言葉を聞くと、その優しさがナディアの立つ場所を曖昧にしていたのかもしれないと思った。侍女は主人に仕える。主人は侍女を信頼して任せる。その形が崩れると、周囲から見たとき、ナディアの働きまで不安定に見えるのかもしれない。
「わたくしは、ナディアに失礼をしていたのでしょうか」
ナディアが、ほんの少し顔を上げた。すぐには答えない。祖母がいる場で、侍女が主人と先代公爵夫人の会話に割り込むことはしない。その沈黙にも、役割があった。アデライードはそれを許したうえで、エレオノーラに向き直った。
「失礼というより、まだ知らなかったのです。だから今日から学びます。相手を大切に思うことと、相手の立場を崩さないことは、両立させねばなりません。王妃となる者が女官にへりくだれば、女官は王妃を守れなくなる。公爵令嬢が侍女に遠慮しすぎれば、侍女は主人のために必要な判断をしにくくなる。あなたがナディアを信頼するなら、ナディアが侍女として働ける言葉を使いなさい」
信頼するなら、任せる。エレオノーラはその言葉を胸の中で繰り返した。助けることと似ているのかもしれない。相手のために手を出しすぎることが、相手の立つ機会を奪うことになるなら、丁寧にしすぎることも、相手の役目を奪うことになるのだろうか。父の言葉、母の言葉、祖母の言葉が、別々の場所から同じものへ向かっているように感じられた。
「では、どのように言えばよいのでしょう」
「まず、ナディアに本を取ってほしいなら、許しを求めるのではなく、役目として任せます」
祖母は机の上の教本へ目を向けた。
「言ってごらんなさい」
急に試されているわけではない。これは妃教育の始まりなのだと、エレオノーラは理解した。彼女はナディアを見た。ナディアはいつも通り控えている。けれど、目を伏せながらも、主人の言葉を待っていることは分かった。エレオノーラは喉の奥で一度言葉を整えた。命じるのではない。冷たくするのでもない。信頼して任せる。そう思って口を開いた。
「ナディア、その教本をこちらへ」
言った瞬間、自分の声が少し違って聞こえた。硬くはない。けれど、先ほどのように許しを求めてはいない。ナディアは静かに礼をとった。
「かしこまりました、お嬢様」
彼女は机へ向かい、教本を両手で取り、エレオノーラの近くへ運んだ。その動きはいつもと同じはずなのに、どこか迷いが少なかった。エレオノーラはそれを見て、胸の奥に小さな驚きを覚えた。自分が言葉を変えただけで、ナディアの仕事が少しはっきりしたように見えたのだ。
とてもスローペースで申し訳ありません
ゆっくりお付き合いいただけたら幸いです




