第26話「神崎の覚悟」
残り十日。天蓋の崩壊は加速していた。
格子線の三分の一が消失し、空はまだら模様になっていた。天蓋がある部分は蒼白く光り、消失した部分からは本来の宇宙が透けて見える。二つの空が混在する──人類が初めて見る光景。
夜になると、その異様さが際立った。天蓋のある区画は以前と同じ蒼白い夜空。天蓋のない区画からは、フィルターのかかっていない本来の星が見える。色が違う。明るさが違う。同じ空なのに、パッチワークのように異なる世界が隣り合っている。
子供たちが空を指差して「あっちのお星さまとこっちのお星さま、色が違うね」と言った。親たちは答えられなかった。
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最初の犠牲者が出たのは、崩壊開始から八日目だった。
格子線が消失するとき、微弱な電磁パルスが放出される。通常は人体に影響のないレベルだが、太い格子線──グリッドの主幹に当たる部分──が解けるとき、パルスの強度が跳ね上がる。
北海道上空の主幹格子線が消失した夜、直下の住宅街でペースメーカーを使用していた高齢者が三名、心停止した。うち二名は蘇生したが、一名は戻らなかった。
ニュースは「原因調査中」と報じた。管理局は声明を出さなかった。黒田の指示──「事実だけを伝えろ」は、事実すら伝えないことを意味していた。凛はそのニュースを見て、黒田の苦渋を想像した。管理とは──選ぶことだ。何を守り、何を見捨て、何を黙るかの選択。
澪が凛の隣でニュースを見ていた。
「──この人は、天蓋のせいで?」
「直接の因果関係は証明できない。──だが、間接的にはそうだ」
「間接的に、でも、亡くなっている」
凛は答えなかった。探求にも管理にも否定にも、犠牲が伴う。どの道を選んでも。
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神崎からの最後の通信が届いたのは、その翌日だった。
暗号化されていない。平文。神崎は──もう隠れることをやめていた。
灰島。
穴に入った。
管理局の封鎖が解かれた。
穴の内側は──前と違う。
前回は黒い闇だった。
今は──光っている。白い光。眩しいくらいだ。
そして声が聞こえる。前回と同じ。
「もう一度」。
今度は意味が分かる。
「もう一度」は命令じゃない。──確認だ。
「もう一度やるぞ」という、自分自身への宣言。
天蓋は壊れない。分かっている。
俺がどれだけ叩いても、穴の内側から何をしても、
天蓋は天蓋のままだ。
だが──否定し続けることに意味がある。
「これは檻ではない」と言い続ける人間が
一人でもいる限り、人間は家畜ではない。
灰島。お前は理解しろ。
俺は否定する。
黒田は守る。
三つ揃って──人間だ。
── 神崎
凛は通信を読み終えた。
神崎は穴の中に入った。戻ってこないかもしれない。──だが神崎はそれを覚悟の上で選んでいる。
凛は窓の外を見た。まだら模様の空。崩れかけた天蓋。その向こうに見える本来の星。
三つの道が、同時に走り始めた。
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崩壊は日を追うごとに速くなった。
残り七日。格子線の半分が消失。空のあちこちに暗い窓が開き、天蓋のない宇宙が覗いている。昼間でも、天蓋のない区画では星が見える。太陽の光が天蓋のフィルターを通らず直接降り注ぐ区画が現れ、地上に色温度の境界線ができた──天蓋越しの日光は僅かに青みがかり、直射の日光は赤みが強い。同じ道路の左右で、光の色が違う。
人々は──それでも、日常を過ごしていた。
コンビニは営業していた。電車は(やや乱れながらも)走っていた。子供たちは学校に行った。教師は授業の代わりに空を見上げ、「今日は理科の代わりに宇宙の授業にしましょう」と言った。
残り五日。格子線の八割が消失。
初めて、「夜が明るい」現象が起きた。消失した格子の残骸──まだ空中に漂っている光の繊維が、太陽光を散乱させた。夜なのに、空全体が薄く白く光っている。月のない夜なのに文字が読めるほどの明るさ。
千年前の記録にあった「三日間、昼と夜の区別がなくなった」の前兆だった。
残り三日。格子線の九割五分が消失。
昼夜の区別が本格的に曖昧になった。
残った格子線の断片が空中を漂い、太陽光と反応して虹色の帯を作る。夜は散乱光で空が白く輝き、昼は逆に、天蓋のフィルターが消えた区画が暗く見える。脳が混乱する。時計を見ないと今が昼なのか夜なのか分からない。
眠れなくなった人が続出した。体内時計が狂う。夜になっても空が光り続けることで、体が「まだ昼だ」と錯覚し、眠気が来ない。管理局はアイマスクの配布を指示したが、届かない地域もあった。
病院の救急外来がパンクした。ペースメーカーの不調、不眠症、パニック発作。天蓋の崩壊が直接殺さなくても──間接的に、静かに、人間を蝕んでいた。




