第25話「三つの道」
残り二十日。旧グリッドの崩壊が始まった。
最初は音だった。
低周波の振動。人間の可聴域の下限を掠める、聞こえるか聞こえないかの重低音。建物の窓ガラスが共鳴し、テーブルの上のコップが小刻みに震えた。街路樹が風もないのに揺れる。犬が一斉に吠え始めた。地震速報は出ない。震源がないからだ。
振動は空から来ていた。
凛はアパートの屋上で観測を続けていた。定点カメラに映る天蓋のグリッドが──ゆっくりと、ほつれ始めていた。
格子線が光りながら解ける。蒼白い光の糸が空中に放たれ、大気中を漂いながら消えていく。蛍のようだった。あるいは──古い編み物をほどくとき、毛糸が記憶の形を失っていくように。
美しい光景だった。
世界が壊れる音は、意外なほど静かだった。
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街の反応は三つに分かれた。
七割の受容派は空を見上げ、「きれいだね」と言い、写真を撮り、SNSに投稿した。天蓋指数が「E──異常」に引き上げられても、多くの人は日常を手放さなかった。いつもの電車に乗り、いつもの仕事に行き、いつもの晩御飯を食べる。変わるのは空だけだ──と信じたい人々。
プロメテウスの支持者たちは歓喜した。天蓋が壊れていく。彼らが長年訴えてきた「檻」が、ついに崩壊する。路上で踊る者さえいた。だがその歓喜のどこかに──恐怖が滲んでいた。檻の外に何があるのか、否定派も実は知らない。
管理局は沈黙した。声明を出さなかった。黒田の指示だった。「事実だけを伝えろ。解釈するな」。
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管理局の地下指揮室。モニターの壁に世界中の天蓋観測データが投影されている。グリッドの崩壊速度、穴の拡大状況、電磁放射の強度。数値が刻一刻と変わっていく。
黒田は指揮席に座り、全世界の管理局ネットワークに向けて指示を出していた。
「シェルター開放は各国の判断に委ねる。管理局としてはシェルター入りを強制しない。──繰り返す。強制しない。各自が判断せよ」
オペレーターたちが戸惑いの目で黒田を見た。管理局が管理を放棄している──そう見えたのだろう。だが黒田は動じなかった。
凛がその日、管理局の拠点を離れる準備をしていた。研究スペースの機材をまとめ、観測データをバックアップし、最小限の装備を鞄に詰める。
黒田が地下指揮室から上がってきた。廊下で凛と向き合った。
「灰島。三つの道の最後を決める時が来た」
凛は頷いた。
「俺は管理で最善を尽くす」黒田が言った。「お前は探求で行け。そして神崎は──」
「神崎は自分の道を行く。止められない」
黒田は一瞬考え──それから、凛が今まで見たことのない決断を下した。
「プロメテウスの海上封鎖を解除する。神崎が穴に近づきたいなら、好きにさせろ」
凛は黒田を見た。「いいのか」
「良くはない。だが──三つの道が全て試される方が、一つだけ試されるより確率は高い。管理者は確率で考える」
凛は黒田に手を差し出した。
黒田は一瞬驚いた。三年前、灰島凛は管理局に牙を剥いた研究者だった。桐谷を通じて内部情報を盗み、独自に応答実験を行い、管理を揺さぶった。その男が今、手を差し出している。
黒田は握った。乾いた手同士が触れた。
「灰島。生きて戻れ」
「黒田。人類を守れ」
凛は管理局を出た。屋外に出ると、空が見えた。崩壊中の天蓋。蒼白い光の断片が大気に舞っている。空気が微かに帯電しているのか、肌がぴりぴりする。
澪と桐谷がアパートで待っている。HIKARUがモニターの中で計算を回し続けている。
残り十九日。




