第27話「黒田の限界」
残り二日。
旧グリッドの九割八分が消失した。空に残っているのは、蒼白い光の破片が散在するだけ──まるで巨大なステンドグラスが砕け散った後のように。
管理局の最後のシールドが機能を停止した。
黒田が凛の元を訪ねてきたのは、その報告を受けた直後だった。管理局本部ではなく、凛のアパートに。黒田が自分の建物を出てきた──それ自体が、事態の深刻さを物語っていた。
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黒田は──疲れ果てていた。
スーツのジャケットはない。シャツの襟は汚れ、目の下の隈は紫に近い。何日寝ていないのか。管理者の鎧が剥がれ落ちた後に残ったのは、六十二歳の疲弊した男だった。
「灰島。管理は限界だ」
言い訳でも弱音でもなかった。事実の報告。管理者として最後の報告。
「シェルターの収容率は四十パーセント。残り六十パーセントの人類は天蓋のない空の下で盤面更新を迎える。管理局にできることは──もうない」
黒田はアパートの椅子に座り、自分の手を見つめた。二十年間、管理のためだけに働いてきた手。
「死者は──三十一名。盤面更新がまだ本格化していないのに。崩壊過程の電磁パルスだけで、これだけの命が失われた」
凛は黙って聞いた。
「助けられなかった。管理局の全リソースを投入しても──三十一人を、守れなかった」
黒田の声が揺れた。初めて聞く揺れだった。
澪が台所からコーヒーを持ってきた。黒田の前に黙って置いた。黒田は澪を見て──かすかに頷いた。
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しばらくの沈黙の後、凛が口を開いた。
「できることはある」
黒田が凛を見た。
「お前の最後の仕事は、管理を手放すことだ」
「管理を手放す?」
「人類に選ばせろ。シェルターに入るか、空の下にいるか。管理局が決めるのではなく、一人ひとりが選ぶ。──それが自由意志だ」
黒田は凛を長い間見つめた。
管理を手放す。二十年間の全てを放棄しろと、この男は言っている。
だが──管理の限界を見た今、手放すことだけが残された「管理」なのかもしれない。管理を手放すという管理。矛盾していて──だからこそ、人間らしい。
黒田は笑った。凛が初めて見る笑みだった。吹っ切れた人間の──あるいは、重荷を下ろした人間の、清々しさ。
「──お前に管理の手放し方を教わるとは思わなかった」
黒田は立ち上がり、凛に向き直った。
「灰島。頼む。──お前の道を、試してくれ」
黒田は頭を下げた。管理者が探求者に頭を下げた。二十年間のプライドを、六畳間の中で下ろした。
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黒田が管理局に戻った後、澪が言った。
「あの人──泣いてましたね」
「泣いていない」
「泣いてました。声が揺れてた」
凛は答えなかった。黒田は泣いていたかもしれない。泣いていなかったかもしれない。どちらでも──人間だ。
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その夜、管理局は最後の緊急放送を流した。
黒田の声だった。
『天蓋管理局局長の黒田です。天蓋の崩壊について、最終的な見解を申し上げます。
旧天蓋の格子構造はまもなく完全に消失します。その後、新しい天蓋が生成されるまでの間、不確定な時間が生じます。管理局はシェルターを開放していますが、入る義務はありません。
シェルターに入るか、空の下にいるか──それはみなさん一人ひとりが決めてください。管理局が決めることではありません。
最後にひとつだけ。天蓋が何であるか、上位存在が何を望んでいるか、私たちにはまだ分かりません。分からないまま明日が来ます。でも──分からないことを分からないまま抱える力が、私たち人間にはあると、私は信じています。
天蓋管理局局長 黒田総一郎』
テレビの画面が暗転した。管理局の公式放送が──史上初めて、「信じている」という主観的な言葉で終わった。
凛はテレビを消した。
「黒田も──変わったな」
残り一日。




