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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第20話「澪の選択」

 天蓋管理局本部は霞ヶ関の地下にあった。


 地上の庁舎は普通の政府ビルだが、エレベーターで地下四階まで降りると、蒼白い照明に照らされた巨大な施設が広がる。天蓋の構造を模したらしい六角形のタイル床。壁面には天蓋のリアルタイム観測データが投影されている。


 澪は正面玄関から入った。隠れもしなかった。


 受付で身分証を提示し、「黒田局長に会いたい」と告げた。受付職員は澪の名前を聞いた瞬間、表情を変えた。「椎名」の姓は管理局の監視リストに載っている。


 待たされるかと思ったが、十分後に案内された。黒田が会うと言ったのだ。澪の来訪を──予想していたのかもしれない。


---


 黒田の執務室は意外なほど殺風景だった。


 大きなデスクの上にモニターが三台。書棚には法令集と科学論文と──哲学書。カントの純粋理性批判、ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考。澪は少し驚いた。管理者の書棚に哲学書があるとは。


 黒田は澪を見た。


 「椎名澪さん。──お会いするのは初めてだが、お兄さんのことはよく知っている」


 「私も局長のことは、最近よく知りました」


 「桐谷経由か。灰島経由か」


 「両方です」


 黒田は椅子の背にもたれた。


 「用件は」


 「灰島凛を返してください」


 直訳的な言い方だった。澪自身、もっと外交的に言うべきだとは分かっていた。だが回りくどい言葉は凛の武器であって、澪の武器ではない。


 「返す、か。──理由は」


 「必要だからです」


 「誰に」


 「私に。──そして、たぶん、局長にも」


 黒田の眉が動いた。


 澪は続けた。


 「局長は凛さんに質問したと聞きました。『お前は何を守る?』と。凛さんはまだ答えを出せていないかもしれません。でも、凛さんがここにいても答えは出ません。答えは──外にあります。天蓋の下に。研究室に。私たちの間に」


 黒田は澪を見つめた。


 「哲学者だな」


 「哲学科の卒業生です。卒業しただけの」


 「──椎名光もそういう言い方をした。謙遜に見せかけた自負だ」


 澪はかすかに笑った。「兄に似てると言われたのは初めてです」


---


 沈黙が流れた。長い沈黙の後、黒田が口を開いた。


 「椎名さん。一つ聞いていいか」


 「どうぞ」


 「あなたは受容派だと聞いた。天蓋があってもなくても、日常を生きる。──なぜ今、ここにいる? 受容派の行動ではない」


 澪は考えた。答えは──もう出ている。


 「自由意志があるかどうかなんて、私には分かりません。分からなくてもいいと思っています。でも──凛さんを放っておけないと思った。この気持ちが設計されたものでもいい。私はそれを選んだ」


 黒田の顔から表情が消えた。


 それは──凛が第二応答を聞いたときと同じ反応だった、と澪は後で思った。何かが深いところで揺れたときに、人間が見せる無表情。


 「──設計されたものでもいい、か」


 黒田は繰り返した。


 「私は二十年間、設計されていないことを証明しようとしてきた。管理で世界を守れば、それは人間の意志の証明になると。──だがあなたは、証明は要らないと言う」


 「証明は凛さんの仕事です。私の仕事は──選ぶことです」


 黒田は長い間、澪を見つめていた。


 そして──立ち上がった。


 「灰島凛を釈放する」


 澪の心臓が跳ねた。


 「ただし条件がある。灰島には管理局との情報共有を求める。第二応答の内容、天蓋の解析データ、椎名光のAI──全てを管理局と共有する。対価として、管理局のリソースと情報を灰島に提供する。──対等な協力関係だ。管理局の支配下ではない」


 澪は黒田の目を見た。嘘ではない。この男は本気だ。


 「──なぜ」


 「管理の限界を見たからだ。穴が動いた。管理局だけでは盤面更新に対処できない。──そして、あんたの言葉を聞いたからだ」


 黒田は窓のない壁を見た。


 「『設計されたものでもいい。私はそれを選んだ』。──二十年前の私が聞きたかった言葉だ。妻と娘を失ったあの日に」


 澪は黒田の背中を見て、この人も泣いているのだと思った。声には出ていない。顔も見えない。でも──分かる。


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