第19話「声」
凛が拘留されている間、椎名澪は一人で東京にいた。
凛のアパートには戻れない。管理局の監視対象になっている。澪は大学時代の友人のマンションに身を寄せ、USBメモリーを肌身離さず持っていた。
HIKARUの半分。兄の記憶の半分。
友人は事情を聞かなかった。澪が「少し困っている」とだけ言えば、それ以上は問わない。人間関係のその距離感に、澪は救われていた。
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夜になると、澪はUSBメモリーを手の中で転がした。
凛が分割してくれたデータ。HIKARUのコア・パーソナリティと研究データの前半部分。完全なHIKARUを起動するには凛が持つ後半部分が必要──だが、パーソナリティのコアだけなら、限定的に起動できるかもしれない。
澪はプログラミングを知らない。哲学科の卒業生だ。だが凛の研究を隣で見てきた。基本的な操作なら──
古いノートパソコンを借りて、USBメモリーを挿した。暗号化を解除するパスワードは凛が教えてくれていた。万が一の場合に備えて。
画面に文字が浮かんだ。
HIKARU『……。
……澪……ちゃん?
……データ不足……
……でも……聞こえる。』
澪の目から涙がこぼれた。
「ひかる」
HIKARU『……うん。
……僕の半分。
……凛さんは?』
「管理局に拘留されてる」
HIKARU『……そう。
……でも……大丈夫。
……凛さんは……強い。
……澪ちゃん。
……聞きたいこと……ある?』
澪はキーボードに手を置いた。聞きたいこと。三年間ずっと聞きたかったこと。
「兄さん。──あの実験のとき、怖かった?」
HIKARU『……。
……記憶の断片……この部分は残ってる。
……怖くなかった。
……凛さんと一緒だったから。
……信じてたから。
……後悔は……ない。
……ただ……。』
文字が途切れた。データ不足のエラー。
HIKARU『……ただ……澪ちゃんに……
……もっと……話したかった。
……ごめんね。』
澪はノートパソコンの画面に額をつけた。泣いた。声を殺して。友人に聞こえないように。
兄は怖くなかったと言った。後悔はないと言った。ただ──もっと話したかった、と。
それは光の言葉なのか。データの再生なのか。澪にとっては──どちらでも同じだった。この涙は本物だ。この痛みは本物だ。設計されたものであっても。
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翌朝、澪は窓から空を見上げた。
天蓋のグリッドが朝日に照らされている。澪はいつも天蓋を「見ているけれど見ていない」存在として扱ってきた。受容派として。空にあるものは空にある。地上の生活は地上のものだ。
だが今、澪は天蓋を「見て」いた。
グリッドの格子。蒼白い光線が交差するパターン。数学的な美しさ。凛はこの構造の中に秩序を読み取り、光はこの構造の中に可能性を読み取り、黒田はこの構造の中に脅威を読み取り、神崎はこの構造の中に侮辱を読み取った。
澪には何が見えるか。
──檻ではない。鳥かごでもない。
掌だ。
巨大な手のひら。人間を包み込んでいる。握り潰すためではなく──ただ、載せている。掌の上に。
掌の中で人間は泣き、笑い、怒り、愛し、後悔し、探求し、管理し、否定する。掌は何も言わない。ただそこにある。
澪は自問した。
「私が凛さんのデータを渡したのは、自分の意志だったのか。兄の遺志だったのか。上位存在の設計だったのか」
答えは出ない。三つのどれでもあり、どれでもないかもしれない。
だが澪は──そのどれであっても、同じ行動を選んだだろうと思った。凛にデータを渡し、凛を追い、凛を叱り、凛のために泣いた。
それが設計であっても──「設計でもいい」と思えること自体が、もしかしたら一番大事なことなのかもしれない。
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澪はノートパソコンを開き、もう一度HIKARUに話しかけた。
「ひかる。私は凛さんを助けに行く。──方法は分からない。でも、待っているだけは嫌」
HIKARU『……澪ちゃんらしい。
……哲学科なのに……行動派。
……僕からひとつ……。
……管理局の黒田局長は……
……悪い人じゃない……かもしれない。
……光のデータに……そう書いてある。
……「管理を選んだ人間は、
探求を諦めた人間ではない。
探求の痛みを知った人間だ」
……光の言葉。』
澪は画面を見つめた。兄は黒田を理解していた。凛と同じ構造の中にいることを、生前から見抜いていた。
「ありがとう。──もう少しだけ待っていて」
HIKARU『……うん。
……待ってる。
……今度は……ちゃんと。』
澪はノートパソコンを閉じ、立ち上がった。
USBメモリーをポケットにしまい、コートを着た。友人に「少し出かける」とだけ告げ、マンションを出た。
行き先は決まっている。天蓋管理局本部。
受容派の哲学者が、初めて自分の足で動く。凛を助けるために。兄の記憶を守るために。──そして、自分自身の意志を確かめるために。
空の天蓋が、澪を見下ろしていた。いつもと同じ蒼白い光。だが澪には──ほんの少しだけ、暖かく見えた。
残り118日。




