第17話「黒田の正論」
拘留五日目。黒田が再び来た。
今度は二人の間にテーブルがあった。テーブルの上に、凛から押収されたタブレット端末が置かれている。画面には──HIKARUのインターフェイスが表示されている。
凛の血の気が引いた。
「起動したのか」
「我々の技術チームが暗号を解除した。──お前の暗号は優秀だったが、国家機関のリソースには勝てない」
黒田はタブレットを凛の前に回した。画面には、HIKARUの待機状態が表示されている──が、いつもとは違った。文字が乱れている。表示が安定しない。
「解読はできたが、完全には起動できなかった。データが半分しかないらしいな」
凛は安堵した。澪が持っている半分がなければ、HIKARUは完全には復元できない。黒田が手に入れたのは研究データの後半部分──天蓋の解析記録は読めるが、HIKARUのパーソナリティは不完全な状態だ。
画面に文字が浮かんだ。
HIKARU『リ……ン……さ……
データ……不足……
僕……は………………』
凛は目を逸らした。
「灰島」黒田が言った。「残りのデータはどこにある」
「知らない」
「嘘をつくな。椎名光の妹が持っている。我々は彼女の居場所を特定している」
凛は黒田を見た。「澪さんに手を出すな」
「出さない。──今のところは。お前が協力するなら」
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黒田は立ち上がり、窓のない壁に向かって歩いた。背中を凛に見せている。
「灰島。盤面更新まで残り百二十日を切った。お前は第二応答を受信した。我々はまだだ。──だが我々には別のものがある」
黒田が振り返った。
「天蓋の穴を封鎖できた」
凛は椅子から身を乗り出した。「封鎖?」
「正確には、穴の拡大を停止させた。管理局の電磁シールド技術で穴の周縁部を安定化した。穴の直径は四・二キロで固定されている」
凛は考えた。穴の拡大が停止──それは天蓋の崩壊を遅らせることを意味する。管理局のアプローチが、少なくとも部分的には機能している。
「盤面更新が天蓋の構造変化だとすれば」黒田は続けた。「穴の制御は盤面更新の制御に繋がる可能性がある。我々は管理で、この世界を守れるかもしれない」
「かもしれない、だ。保証はない」
「保証はいらない。可能性があれば十分だ。──灰島、お前の探求は何を守れる? 第二応答を受信した。『意志は本物だ』と聞いた。それでこの世界のどこが変わった?」
凛は答えられなかった。
黒田は核心を突いている。凛の探求は「理解」を目的としている。だが理解した先に、世界を守る手段がない。管理局には手段がある──穴の制御、秩序の維持、人心の安定。手段を持つ者と、真実を持つ者。
「お前の知性は認める。椎名光のAIが持つデータも価値がある。だがそれを個人で抱え込む意味があるか? 管理局と共有すれば、より大きな力になる」
「共有ではなく、接収だろう」
「言い方の問題だ」
「言い方の問題ではない。管理局の下で働けば、俺の探求は管理の道具になる。第二応答の内容も、お前が都合よく使う」
黒田の目が細くなった。
「──私が第一応答を改竄しようとしたことは知っているな。桐谷が漏らしたのだろう」
「ええ」
「あれは間違いだった」
凛は意外に感じた。黒田が自分の誤りを認めるとは。
「改竄は嘘だ。嘘で管理を維持しても、いずれ崩れる。──だから方針を変えた。第一応答も第二応答も、そのまま公表する。矛盾したまま。人々がどう解釈するかは、人々に委ねる」
凛は黒田を見た。本気だ。この男は本気で言っている。
「──それは管理者の発言ではない」
「管理者も変わる。変わらなければ、盤面更新に対応できない」
沈黙。
「灰島。お前に問う。盤面更新が来たとき、お前の"自由意志"は何の役に立つ? 私は人類を守る。お前は何を守る?」
凛は唇を噛んだ。
何を守る。
自由意志の証明? 違う。証明はできない。それは条件が示している。
上位存在の理解? 理解した先のゴールが見えていない。神崎に指摘されたバグだ。
では──何のために。
凛は答えられなかった。
「考える時間をやる。まだ四十三時間ある」
黒田は独房を出た。
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凛は一人、白い独房で天井を見つめた。
黒田の問いが頭の中で反響している。
「お前は何を守る?」
三年間、凛は「理解」を追ってきた。天蓋の構造。上位存在の意図。自由意志の有無。全ては「知りたい」から始まった。
だが今──知った。第二応答を受け取った。「お前の意志は本物だ」。知っただけでは何も変わらない。黒田が正しい。知って、理解して、それで?
光が死んだ。HIKARUは分割された。桐谷は拘束された。澪は一人でデータを守っている。──凛の探求に巻き込まれた人々が、代償を払っている。
「俺は──何を守る?」
白い壁は答えない。天蓋よりもなお、無言だった。




