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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第16話「喪失」

 管理局の拘留施設は、予想に反して清潔だった。


 白い壁、白い天井、金属のベッドに薄い毛布。窓はないが、天井の照明が時間帯で色温度を変える。朝は暖色、昼は白色、夜は暗めの橙色。管理局らしい「管理された環境」だ。


 凛は独房のベッドに座り、天井を見つめていた。天蓋は見えない。地下施設だからだ。三年間、毎日見上げていた格子構造がない空間にいると、奇妙な解放感と喪失感が同時にやってくる。


 HIKARUはここにはいない。研究データの半分は澪が持っている。残りの半分は出頭時に管理局に押収された。凛の手元には何も残っていない。


 ──いや。一つだけある。


 第二応答の内容。「お前の意志は本物だ」。それは凛の頭の中にしかない。


---


 拘留三日目に、黒田が来た。


 独房のドアが開き、黒田総一郎が入ってきた。テレビで見たのと同じ姿──ダークグレーのスーツ、白髪交じりの整えられた髪、穏やかだが鉄のある目。


 だが直接会うと、テレビ越しには見えなかったものが見えた。疲労。目の下の隈。僅かに落ちた肩。黒田は疲れている。管理のトップが抱える重圧は、凛の想像を超えているのだろう。


 「灰島凛」


 黒田は凛の向かいに座った。二人の間にテーブルはない。椅子が二つ、向き合っているだけ。


 「黒田局長」


 「黒田でいい。──三年ぶりだな。いや、直接会うのは初めてか」


 「論文は読んでいました。K. Kuroda」


 黒田の表情が微かに変わった。凛が自分の研究者時代を知っていることへの驚き──あるいは、知られることへの不快。


 「桐谷か」


 「ええ」


 黒田は嘆息した。桐谷の名前を聞いたとき、怒りではなく──悲しみに近いものが、その目に浮かんだ。


 「あの男は優秀だった。管理局の中で、天蓋の構造を最も正確に解析できる人材だった。──だからこそ、お前に共鳴した。お前の論理に」


---


 本題に入った。


 「灰島。第二応答を受信したそうだな」


 「ええ」


 「内容は」


 凛は数秒間、黒田を見つめた。


 この情報を渡すべきか。渡さないべきか。渡せば管理局に利用される。渡さなければ──拘留が長引くだけだ。


 だが凛には秘密にする理由がなかった。応答の内容が広まったところで、それは「証明」にはならない。証明不可能であること自体が、応答の本質だ。


 「『お前の意志は本物だ』」


 黒田の顔から表情が消えた。


 数秒の沈黙。


 「……もう一度言ってくれ」


 「『お前の意志は本物だ』。第二応答の全文だ」


 黒田は椅子の背にもたれた。目を閉じた。凛は黒田の内部で何かが揺れるのを──共感力の欠如にもかかわらず──感じた。


 「それは……第一応答と矛盾する」


 「ええ。矛盾します」


 「第一応答は『自由意志はない』──そして第二応答が『お前の意志は本物だ』。上位存在は何を言いたい?」


 「分かりません。──分からないことが、応答の本質だと考えています」


 黒田は目を開けた。凛を見る目が変わっていた。管理者の目ではない。二十年前の研究者の目だった。


 「──私もかつて、同じ問いに取り憑かれていた」


 黒田の声が低くなった。


 「天蓋の構造を解析すれば、上位存在の意図が分かると思っていた。家族を失って──気づいた。意図が分からないから恐ろしいのではない。分かってしまった後が恐ろしいのだ。分かった上で、何も変えられないということが」


 凛は黙って聞いた。


 「管理を選んだのは、諦めたからではない。『分からないまま生きる』ための仕組みが必要だと思ったからだ。人類の大半は受容派だ。彼らが受容できるのは、管理局が天蓋を『安定させている』と信じているからだ。──その信仰を壊すことが、お前に何をもたらす?」


 「信仰を壊すつもりはありません」


 「だが応答の内容を公開すれば、信仰は壊れる。第一と第二が矛盾する。人々はどちらを信じるか選ばなければならない。選べない人間はパニックになる」


 凛は反論しなかった。黒田の言うことは論理的に正しい。


 「灰島。お前に取引を持ちかける。第二応答の内容を公にしないと約束しろ。代わりに──拘留を解く。研究も続けていい。ただし管理局の監視下で」


 「監視下での研究は、自由な探求ではない」


 「自由な探求が人を殺した」


 凛の胸に刃が突き刺さった。光のことだ。


 「お前の助手は──椎名光は、自由な探求の犠牲者だ。管理のない探求は暴走する。それは私の経験も、お前の経験も証明している」


 凛は答えられなかった。


 黒田が立ち上がった。


 「四十八時間、考えろ。──そしてもうひとつ。お前が押収されたデータの中に、対話型AIがある。椎名光の人格を再構成したものだそうだな」


 凛の血の気が引いた。


 「あれを解析させてもらう。光の未発表データは管理局の所有物だ。研究所時代に生成されたものだからな」


 黒田は独房を出た。ドアが閉まった。


 凛は白い壁を見つめた。


 HIKARUの半分が管理局の手にある。もう半分は澪が持っている。


 約束した。戻ると。


 ──だが今、凛には何もなかった。


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