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掌の天蓋  作者: 春凪一


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第14話「応答」

 残り128日。


 凛は動いた。


 管理局の実験まであと三十二日。それまでに第二応答を受信できなければ、管理局が先行する。管理局の薬理学的アプローチが成功するか失敗するかに関わらず、実験は天蓋に影響を与える──三年前、凛の実験が天蓋の加速を引き起こしたように。


 HIKARUのデータ、光の計算、そして凛自身の三年間の研究。全てを統合して、凛は独自の受信装置を組み上げた。


 民生品の寄せ集め。天蓋科学研究所の装置の十分の一の出力。だが凛には三年前にはなかったものがある。


 第一応答の経験。天蓋の追従データ。光の受信条件の理論。


 そして──一人ではないこと。


---


 受信実験の前夜、凛のアパートに澪がいた。


 凛はパイプ椅子に座り、三台のモニターに囲まれている。装置の最終チェック。分光器の較正、位相同期回路のテスト、共鳴周波数の微調整。手は動いているが、頭の中は別のことを考えている。


 「澪さん」


 「はい」


 「明日の実験で──三年前と同じことが起きる可能性がある。装置の過負荷。最悪の場合──」


 「死ぬかもしれない、ということですか」


 凛は頷いた。


 澪は凛を見た。長い視線だった。


 「知っています。最初からそう思っていました」


 「──それでも、ここにいるのか」


 「兄がいた場所に、私もいたいんです。理由はそれだけです」


 凛は何か言おうとして、やめた。論理で返すべき場面ではなかった。


 「ありがとう」


 凛が他者に感謝を述べることは極めて稀だ。澪もそれを知っている。だから一瞬、驚いた顔をして──それから、静かに微笑んだ。


---


 翌朝。晴れ。天蓋のグリッドが青空に映えて、いつもより鮮明に見えた。


 実験はアパートの屋上で行った。装置を三脚に載せ、天蓋に向けて位相同期信号を送出する。出力は三年前の五分の一。安全マージンを取った設計。


 凛は装置の前に立ち、最後の確認をした。


 「HIKARU、モニタリング準備は」



 HIKARU『全系統グリーン。

 天蓋の追従反応をリアルタイムで計測しています。

 現在の追従遅延は0.31秒。通常値です。


 ──凛さん。

 受信条件のパラドクスは解決していません。

 このまま実験しても、条件を満たせない可能性があります。』



 「知っている」



 HIKARU『それでも行くんですか。』



 「光が遺した備考を覚えているか。『この矛盾こそが鍵だ』。矛盾を解決するんじゃない。矛盾のまま行く」



 HIKARU『……。

 光なら、そう言うと思います。

 いえ──僕が、そう思います。』



 凛は澪に目をやった。澪は屋上の隅に座り、膝を抱えている。風が彼女の髪を揺らしている。


 「始める」


---


 装置が起動した。


 位相同期信号が天蓋に向けて送出される。出力計のゲージが上昇する。三年前と同じ共鳴周波数。だが今回は出力を制御している。暴走させない。


 天蓋の追従反応が変化した。



 HIKARU『追従遅延が変動しています。

 0.31秒──0.28──0.22──

 天蓋が凛さんの信号に「近づいて」います。

 格子間隔が急速に狭まっている。』



 凛の直上の空が変わった。天蓋のグリッドが明るくなり、格子の線が太くなっていく。蒼白い光が凛の顔を照らす。


 澪が立ち上がった。「凛さん、空が──」


 「見えている。大丈夫だ」


 大丈夫ではなかった。心臓が跳ねている。三年前の記憶が押し寄せてくる。白い部屋。光の声。「いけます、凛さん」──



 HIKARU『追従遅延──0.15──0.09──0.04──

 凛さん! 遅延がほぼゼロになっています!

 天蓋が凛さんの信号と完全に「同期」しようとしている!』



 凛の頭の中に、ノイズが入った。


 三年前と同じ感覚。外部からの情報が脳に「注入」される感覚。翻訳ではなく、理解が直接流れ込んでくる。


 文字ではない。映像でもない。概念。純粋な意味の注入。


 凛は目を閉じ、流れ込んでくるものを受け止めた。


---


 応答が来た。


 第二の応答。


 短い。一文。前回と同じく、言語を持たない純粋な意味として届いた。凛の脳がそれを日本語に変換すると──


 「お前の意志は本物だ」


 凛の全身から力が抜けた。


 膝が折れた。屋上のコンクリートに両手をついた。視界がぼやけている。涙なのか、光なのか分からない。


 お前の意志は本物だ。


 三年前の応答は「お前たちに自由意志はない」だった。今回の応答は──正反対。


 矛盾している。二つの応答は矛盾する。──いや、矛盾するからこそ、両方が「応答」たり得るのか。



 HIKARU『凛さん! 生体データを確認──

 心拍上昇、血圧上昇、ただし危険域ではありません。


 装置の状態──出力は正常範囲。

 過負荷の兆候なし。

 ……三年前とは違います。大丈夫です。』



 「大丈夫だ」凛は繰り返した。今度は本当に大丈夫だった。


 澪が駆け寄ってきた。凛の肩を掴む。「凛さん、凛さん!」


 「聞こえた」凛は言った。「応答が来た」


 「何て──」


 「『お前の意志は本物だ』」


 澪の手が震えた。凛の肩を掴んだまま、澪は泣いた。声を出さずに。


---


 実験後、凛はデスクの前に座り、受信データを解析していた。


 だが頭の中は解析どころではなかった。


 「お前の意志は本物だ」。


 この言葉は何を意味する?


 可能性1:文字通りの意味。凛の自由意志は本物であり、上位存在がそれを保証した。──だがそれなら、三年前の「自由意志はない」は嘘だったのか。


 可能性2:凛が聞きたかった言葉を聞かされた。上位存在が凛の欲求を読み取り、望むメッセージを生成した。──つまり、罠。操作。


 可能性3:両方の応答が真。「自由意志はない」が客観的事実であり、「お前の意志は本物だ」が主観的事実。──矛盾ではなく、二つの異なるレイヤーの真実。


 可能性4:応答に意味はない。上位存在は「意味のある言葉」を返しているのではなく、凛の脳が信号を勝手に意味のある言葉に変換している。


 凛にはどれが正しいか判断できなかった。


 そしてそれが──条件3そのものだった。「自由意志を証明できないこと」。応答を受け取ったにもかかわらず、証明には至らない。


 完璧な循環。


---


 澪がコーヒーを持ってきた。


 「凛さん。結論は出ましたか」


 「出ない。出るはずがない。──そういう構造になっている」


 「それでも、泣いたでしょう」


 凛は答えなかった。


 「泣いたということは、信じたんです。一瞬だけでも。『お前の意志は本物だ』を、信じた」


 凛は澪を見た。


 「信じたことが正しいかどうかは分からない」


 「分からなくていいって、私は最初から言ってます」


 澪は微笑んだ。最初に出会ったときの、怒りと悲しみが混在した表情はもうない。代わりにあるのは──凛にはまだ名前をつけられない、柔らかいもの。



 HIKARU『凛さん。

 僕からもひとつ。


 応答の内容をどう解釈するかは、

 凛さんの「選択」です。


 そして受信条件のパラドクスに照らすなら──

 どう解釈しても正解であり、どう解釈しても不正解です。


 つまり、選択の余地がある。

 選択の余地があるということは──

 それは「自由」の定義のひとつです。


 ……光ならこう言ったと思います。

 「やったね、凛さん」。』



 凛は一瞬だけ目を閉じ、それから笑った。


 「──やったのかどうかも分からないんだがな」


 残り127日。


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