壱拾肆
涙ごとシイの顔を拭って、高国は立ち上がった。
「さあ、シイも立って。一緒に行こう」
「どこ?」
「兄上の所」
「え……」
そこは多分、人の多い所だ。
高氏に会うと言うのも、正直シイには煩わしかった。
高国と再会して側にいていいと言ってもらった以上、もうその他の事はどうでもいい。
「ぼく、いいよ。ここにいる」
そんなシイの様子に高国は苦笑を漏らす。
「そう言わずに、一緒に行こう。兄上に会うのも久しぶりだろう?」
「特に……用事ないから」
シイはまったく会いたいとも思わなかった。
「夕餉を用意してある。お腹が空いてないか?」
高国が優しい声でそう言った途端、シイのおなかがぐう、と鳴った。
夕餉……。
ここまでろくな食べ物にありつけなかったけど。昔、足利邸で食べたごちそうを思い出す。
シイは食欲に負けて、大人しく高国について行った。
別の大きな屋敷の一室で待っているように言われて、一人でゴロゴロしながら過ごしていた。
汚れを落としてさっぱりしたし、屋根のある所で過ごすのは久しぶりで、ついシイがうとうとしかけた時——。
襖が開きどかどかと人が入って来た。
高氏を先頭に高国と、もう一人。
「おう、やったな!」
びっくりして飛び起きるシイを気にせず、入って来て開口一番高国が大きな声でそう言った。
「……………」
微睡んでいたところに大きな声を出されて、シイは面倒な顔を隠しもせずじろりと高氏を見上げた。
随分上機嫌なようだ。
「おい、頭くらい、さげろ」
見慣れない人間がむっとしたように言う。
「まあ、そう言うな。そいつは特別だ」
そう言って高氏はずかずかと入ってくると、ぐしゃ、とシイの頭を掻きまわした
シイはぐっと口を結んで耐えた。
「よくやった。非常にいい働きだったぞ!」
「……………」
高氏のためにやったわけじゃない、と言いたかったけど、言っちゃいけないことは分かってる。
身なりを見ても、昔よりもさらに偉くなってるらしいし、あの大軍勢を率いている人なんだし。
見慣れない武士が一人睨んできているし。
だからシイは黙って耐えた。
不快なのはどうしようもないから眉を寄せて、高氏の隣にいる高国に助けを求めて視線をやった。
高国はシイの隣に座ってくれた。
高国とその男も対面に座る。
「殿、それが例の小姓ですか」
「ああ」
初対面で謎の男にじろじろと見られて、シイはまた高国を見た。
「高師直、足利の重臣だ」
随分長い名前だ。どこからが名字でどこからが名前なんだろう。
まあ、呼ぶこともないだろうから気にしなくていいか。
「シイ、怪我はなかったか」
「怪我だらけです」
高国が答えた。そう言われて初めて高氏がまじまじとシイの頭から足先までを見る。
「確かに……随分沢山巻かれているな」
ちょっと大袈裟かと思う程に、高国があちこち布で巻いてくれている。
「よくやってくれた」
「高国様の役に、たった?」
「お前はそればっかりだなあ」
「立っている」
高国がすかさず答えてくれた。
「——でも、もうこんな無茶はしないでほしい。兄上も……一言私に、相談して下さればよろしかったのに」
「いや、だってこいつが、お前の側には戻らないって言うから。——気が変わったのか?」
「高国様が、もう大丈夫って言うから」
考えてみれば、高国の元を去ろうと決めたのも高氏に言われたからだった。
高氏は高国の兄だし、お互いをすごく大事に思っているのが伝わっているから、その言葉を信じたけど……。
「僕はもう、高国様の言葉だけ信じる」
高氏は一瞬驚いたように目を開いたが、すぐにいつもの豪快な笑い声を上げた。
「ははっ、そうか、わるかったよ!お前を追い出したみたいになって」
「……………」
高国は黙っていた。
あの怪我の後、この兄がシイに何か言った事は察していた。
それが足利として正しいという事も分かっているし、兄として単純に自分を心配したからだと言うのも分かっていた。だから何も言わなかったし、聞かなかった。聞けば責めることになってしまう。
黙ってはいるが、シイが離れ、その結果危険を冒し、更にはボロボロになって戻って来たのはどうにもやるせなかった。
それが高国の役に立ちたいからだと無邪気に言われてしまったら……。
こうなったからには、シイを手放さないで側に置いて、見張っておくしかないのかもしれない。
考えながらシイを見ていたからだろうか。不安そうに見返されて、高国はその頭を撫でた。シイはすぐに甘えるようにその手に頭を寄せる。
「相変わらずだなあ」
「これからは、シイの事は私を通してください、兄上」
『へえ……』
高氏と高師直の声が重なった。
高国がそんな風に人に関心を寄せるのは珍しい。
「——まあ、今回限りだろうさ。だって、どうしても、綸旨がないと動けねえってやつらがいたからな——なあ、師直?」
声を掛けられた高師直がそっぽを向いた。
「私は家臣らの意思を伝えたまでです」
「どっちが先かなんて、こだわってる場合かってのに」
高氏と高国がやれやれという顔をしている。
訳が分からず会話に入れなかったシイに、高国がそっと説明してくれた。
「この綸旨はね、足利に、北条を討てという御下命が書かれているんだ。隠岐の島におられたのがどなたかは知ってる?」
「狐の御所様……」
「狐……」
高国は破願した。
「確かに。でも外でそれを言っちゃだめだよ」
御所様、つまり天子様だ。
人間の、一番偉い人。——力を持ってるのは鎌倉の北条だけど、一番偉いのは天子様って聞いた。なんとなくそれは分かっていた。
「北条は、足利の主人なんでしょう?」
「ああ。でも我々はもう既に、離反を決めていた。主君に背くと言うのはただ事ではないからね。家臣らがなかなか納得しなくて」
「あ、だから、北条でなくて御所様の命令——」
「そう。北条より偉い人の命令なら、誰も文句はないだろ?そこで綸旨、というわけ。ただ、順番がね……」
「鎌倉を敵にするのですよ。間違いなく我らが旗頭ではないですか。それくらいないと、とても」
高師直が口を挟む。まあまあ、と高氏が言った。
「足利の方から御所様に綸旨をくれ、っていうつもりだったんだが。師直は、先に御所様が綸旨を出すまで待て、ってな。その押し問答をしながら、はるばる鎌倉から京へ向かってたってわけだ」
段々分からなくなって来たけど、とにかく、手紙が欲しいのにちょうだいって言えず、御所様の方も、出したいけど頂戴って言われないから止まっていた。みたいな事だろうか。
人間は時々そう言う回りくどい事をする。
「御所様は囚われている。命令を出したりしたら、もっと危うい事になる。あっちも確信がないと綸旨を出すことは難しい——お互い、八方塞がりだったんだよ。だからシイが足利の意思を匂わせて、綸旨を得たことで、事態は一気に進むことになる」
「北条は慌てふためくだろうな」
高氏が不敵な笑みを浮かべた。
それと同時にシイのお腹が今度こそ我慢できなくて、ぐう、と鳴った。




