壱拾参
「まさか……」
高国はしばらく動かなかったから、シイが紙をぺらりと開いた。
高国の目が綸旨に釘付けになる。何度も右から左へ視線を動かして、そして赤い印章の所に留まる。そのままじっと眉を寄せて睨んでいた。
「——消えてない?水に入ったり、しちゃったんだけど……僕、文字分からないから」
シイも上から覗き込んだけど、やっぱり全く分からない。
高国は大きく息を吸って吐いて、それからシイをじっと見つめた。
「この玉璽は……間違いない……」
「ぎょくじ?御所様は綸旨って言ってた」
「シイは下野国にいたんじゃなかったのか?これは、間違いなく院御所の玉璽……シイ、隠岐島に——いや、伯耆国にいたのか?」
後醍醐天皇が隠岐島を出て名和氏の力添えで伯耆国に潜んでいるところまでは掴んでいる。
小さい頃に別れたただの子だぬきだったシイと、今の政変の中心ともいえる後醍醐天皇がどう考えてもつながらない。
「えっと……?」
知らない地名が出てきて、シイは首を傾げた。どこから説明すればいいんだろう。
「僕、高氏様に頼まれて」
高国の顔がますます険しくなる。
「御所様の小姓をやってた。そしたら、御所様が、これを高国様に届けてって」
すごく、怖い顔になっている。まずかったんだろうか。
段々声が小さくなった。
「……………ごめん、なさい」
高国が眉間を押さえて、深刻な顔をしているから。
「高国様の役に立ちたかったんだ。僕……」
「私の元を去ったのに?」
「あ……」
シイがしゅんとして肩を丸めた。泣きそうな顔になって、ぐっとこらえる。
この世の終わりのような顔を見て高国はしまった、と思った。
「違う。こんなことを言いたいんじゃないんだ。お前は人を恐れていたから、ただ、案じていたんだ」
高国は優しい声でそう言って、シイの手を握った。
「あの時はちゃんと守ってやれなくてすまなかった。さぞかし、こわかっただろう?」
シイは首を振った。
——僕の事より、高国様の方が、大怪我をしたのに。
「高国様、僕のせいで」
「シイのせいじゃない」
「僕のせいで怪我をした。でも、どうしてそうなったのか、僕にはわからないから。側にいない方がいいんだって——」
「それは違うよ、シイ」
高国の手に力がこもった。
「あれはそうなるように仕向けられていたんだ。そういう時期だったから、どうしようもなかった。私はまだ子供だったし。だから、シイのせいじゃない」
シイのせいじゃない。きっぱりとそう言われて、今まで我慢していたものが溢れてくるようだった。
何が悪いのかもわからなくて、ただ距離を置くしかできなかった。
本当は会いたかったけど、それ以上に、高国がまた血を流すようなことは絶対に嫌だと思って。
でも心配で、一目見たくて。
そんなごちゃごちゃの感情を抱えたまま11年。
だから、高氏の言葉に乗っかったんだ。繋がりがまたできるような気がして。
「泣くくらいなら側にいなさい。もう大丈夫だから」
ぐい、と高国がシイを引き寄せた。シイの小さな体は高国の胸にすっぽりと収まる。
まだ泣いてなかったのに。高国の懐かしい香りをかぐと、一気に涙があふれてきた。
「ごめんなさい。たかくに、さま。ごめ……う、ううぇ」
「謝らなくていいって言っているだろう」
高国が喋ると、体を伝わって低く優しい振動が伝わって来た。
ぽろぽろとあふれる涙が止まらなかった。体のあちこちの痛みも、これまでの寂しさも怖さも、全てもうどうでもよくなるような気がした。
「……あいたかった……」
高国の体にしがみつくと、高国も抱きしめ返してくれた。
「私もだ。ずっと探していた。探しようもなかったけれど。だからすぐに気付いた」
4歳から15歳になって、シイの印象は変わったと思うのに。高国はすぐに気付いてくれた。それがたまらなく嬉しい。
高国はすっかり大人になったけど、シイにもすぐに分かった。きっと遠い後姿でも分かると思う。
ずず、と洟を啜ってシイは高国の胸に顔をすり寄せた。それはたぬきの時の癖で、甘える仕草だけれど、高国は黙って受け入れてくれる。
「僕、また、一緒にいたい」
「……ああ」
「怒ってない?」
さっき、綸旨を渡した時の険しい顔を思い出す。
心配になって見上げるが、眉間の皺はなくなっていた。
「大変な事に巻き込んでしまって、それを私が知らなかったという事に——愕然としただけだ」
「そんなの……知りようがないよ。僕、こっそり高国様を見てて……」
「え?」
「あ、見れなかったんだけど、少しでも近くにいれたらって、鎌倉にいたら、高国様の噂が聞こえるかなって。そしたら、市場で高氏様の方とばったり会って」
「そうか……元弘の乱のすぐ後だな」
高国の中ではすぐに合点がいったらしい。
高氏が渡りに船とばかりに、シイの事をちょうどいいと言っていた。それが高国にも分かったようだった。
「——そういえば、兄上が、運が良ければ風が兆しを運んでくる——と言っていたあれは、何の比喩かとおもっていたけど」
ぱらりと手元の綸旨をもう一度見て、高国はまた驚いたように言った。
「まさかシイがこんな大それたことをするなんて」
「大それたこと?この紙が?」
そういえば御所様もそんなことを言っていた。
高国はぽんぽん、とシイの頭を優しく叩いた。
「シイ、一緒に行こうか」
高国は笑っていた。
「時代の変わり目が見えてきた」
高国の顔は、シイの知らない、今まで見たことのない顔だった。




