壱拾弐
高国はシイを抱いたまま、角を曲がった。そこはすぐ門になっていた。
中に入ると小さな庭がある。
身を縮めて周囲を伺うシイに、高国はそっと話した。
「郎従の家を借りているから、誰も来ない。心配はいらないよ」
シイはたぬきの顔のまま、ぱちくりとした黒い目で高国を見上げた。たぬきの姿でも、不思議と高国にはシイの言う事が分かるようだ。
井戸の側にたらいが置いてある。その傍にシイを降ろして、高国は自ら湯釜のお湯と井戸の水でたらいにお湯を張ってくれた。
じょろじょろと水音がして、湯気が立ち上っている。
シイを抱き上げてそっとその中に入れてくれた。
「泥を落としたいんだけれど……大丈夫?」
お湯は温かく、あまりの心地よさに全身の力が抜けていく。
シイはぽっかりと口を開けて、気が抜けて薄目になった。
それを見た高国が思わず吹き出す。
「たぬきがそんな顔するの……初めて見たな。——道具を取ってくるから、そのまま浸かっていて」
そうして門を出て行った。
一人残されたけど、高国の言った通り、この小さな敷地には人の気配がない。
シイは湯の中で必死に毛づくろいをした。
細かな傷に湯がしみるけど、それよりも汚れに固まった毛が解けていくのが心地いい。
高国が何かの箱を持って戻って来た。それを縁台の上に置いて、シイの側にしゃがむ。
手には布を持っていた。
「——さあ、洗ってやろう」
間近で見ると高国の直垂はすっかり泥で汚れていた。藍色だから分かりにくかったけど、シイは慌てて人間の姿に戻った。
「高国様!汚しちゃった……ごめんなさい」
「このくらい構わない。洗えばいい」
「でも……あ、僕、自分でやります。あっ、にもつ!」
大事な事を思い出して、立ち上がる。
高国が少しだけ目を丸める。
「大丈夫、服に包んだ荷物は私の庭に投げ入れた。——取ってくるから、ほら、裸で立ってないで、湯に入りなさい」
少し落ち着けと言われて、布を渡される。高国は荷物を取りにいってしまった。
受け取った布で体を擦ったら、汚れがどんどん落ちて行く。水が真っ黒になった。
戻ってきた高国はシイの汚れた包みを縁台に置いて、またそばにやってきた。
黒くなった湯を変えてくれる。それを何度か繰り返して、やっと体の泥が落ちた。
「ほら、背中も」
高国は布を湯に浸し、丁寧に絞ってからシイの背中を拭ってくれた。
泥が落ちるたびに、その下から赤く腫れた皮膚が現れる。
高国の手が、そこで止まった。
「……これ、は」
低い声で、ぼそりと呟かれる。
高国は布を置き、そっとシイの手を取った。腫れ上がった掌と足裏。裂けた皮膚、繰り返しついただろう擦り傷や切り傷、乾いた血と瘡蓋と。
「高国様……?」
不思議に思ってみれば、その瞳がわずかに揺れたような。
「……こんなになるまで、一体何をしていたんだ」
静かな声なのに、重く感じた。
怒ってる……?
「傷だらけじゃないか。獣に襲われたのか?もっと早くに、こうなる前に私に会いに来ることはできなかったのか」
高国がまた湯を少し足した。足裏を布が擦って、シイは小さく震えた。
「痛い……?」
シイが首を振ると、手つきは更に優しくなった。そっと撫でるように布で優しく泥を落としながら、高国は傷口を見つめた。
「この足で……山を越えてきたのか。草履を履いてなかったの?」
シイはかすかに頷いた。
「森は、たぬきのほうが良くって」
長距離を移動したのは見たらすぐわかるだろうけど。追われていたこと、身を隠す必要があった事を、一体どこまで説明したらいいのだろう。
そんな事を考えているうちに洗うのが終わったようだった。
「出ておいで」
たらいから出て体を震わせようとしたら、すかさず手拭いをかぶせられる。
そうか。人間は拭くんだった。
ぶるぶるとしたい気持ちを我慢して体を拭いたら、高国が小袖を差し出して来た。大きさはぴったりだった。
「そこに座って」
高国に言われるままに縁台に腰掛けると、高国は薬箱の中から薬草袋を開き、それを布に浸した。
「高国様、僕、渡したいものが——あう!」
こんなことをしてる場合じゃなかった、と思ったのに。動こうとした途端、足の裏に鋭い激痛が走った。 高国の手にある布が足裏に当てられただけで。
「しみるよ」
声色は優しいのに、なぜか有無を言わせない圧がある。
「あ、あの……」
「動いたらだめ」
高国にそう言われると、もうピクリとも動けなくなる。
木彫りの置物のようにシイは固まった。
そっと触れるのに、薬草の汁を浸した布は傷口に当たる度、びりびりと染みる。こんなの舐めておけば治るのに——そう思うのに、それを言ったら怒られそうでシイは微動だにできなかった。
あちこちに薬を塗られ、腫れた足にも何やらひんやりとするものを付けて巻かれる。
「どこも……満身創痍だな」
そう言って高国は溜息と共に薬箱を閉じた。
終わった。シイは固まったまま、少しだけほっとした。それでも口も結んだままだった。
高国か気づいて、つん、と眉間を突いた。
「息してる?」
「……………」
「もう動いていいよ」
高国が笑った。
シイもほっとして一気に表情を緩めた。
薬草の匂いが辺りに漂っている。
身体が温まって手当までされると、途端に安心して眠たくなってくる。
瞼が重くなってきて——はたと思い出した。
「あ——僕の、荷物!」
「これか?着物の他に大事なものがあるのか」
高国が引き寄せて渡してくれる。
シイは慌てて汚れた着物の丸みを解く。出てきた包みを開いた。ここまでずっと背負って来た包み。
開けると、それはちゃんと折りたたまれてそこにあった。
濡れて、所どころ汚れて、ぼろぼろになってはいるけれど。
「……これ……」
皺だらけになった紙を取り出して、シイは高国に渡した。
「高国様にって、言われた」
「私に?誰から?」
「御所様」
「ご……」
高国がその場で息を呑み、シイの手元を凝視した。




