壱拾
その日の夕方だった。
漁師の小屋の前に、見慣れない影が三つ、四つ。
ガチャガチャという音と共に人の気配がして、外が騒がしくなった。
小屋はあちこちに隙間があるから、外の声や音がよく聞こえる。
「——この辺りに不審な子供が流れ着いたと聞いた」
「島から逃げた者がいる。探しているのだ」
シイは息を呑んだ。
追手だ。それも、シイのことを探している。
ユイの父が戸口に立っていた。
「うちにそんな子はいねえよ。ここのところ、海で死んじまった奴なら、何人か流れてくるが」
「嘘をつくな。村の者から聞いた。小さな子供を助けたと」
ガチャガチャと音がする。
「おい、勝手に……!娘が寝てんだ、後にしろ!」
兵の一人が家の中を覗こうとしているのか。
押し問答が始まってる。兵士にも遠慮のない物言いをするユイの父にも驚いたが、いつまでもそうしてはいられないだろう。
ユイがシイの手を握り、震えながら囁いた。
「シイ……に、にげないと」
そうは言っても、入り口には兵士。まだシイは本調子じゃないから、素早くは動けない。
それでも、後がないのは確かだ。
綸旨はすでに乾いて包みに入れてるけど、これを見られたら終わりだ。兵士の中にシイの顔を知ってる者がいるかもしれない。
その瞬間、兵の怒号が響いた。
「おい、いたぞ!あっちだと!」
「ああ?なんだって!?」
兵士の足音が遠ざかっていく。
村の人が協力してるのだろうか。
ここの人達にとっても、シイが見つかるのはまずいはずだ。
シイは心臓を掴まれたように固まっていたが、ぐっと包みを握りしめ、跳ねるように立ち上がった。
足は痛むが、走れないほどではない。
「シイ、こっち!」
シイが扉をそっと開けて声を上げた。緊張した顔のその手をぎゅっと握り、そして離した。
「ユイ、ありがとう」
それだけ言って、飛び出した。
砂浜は走るのが難しい。
そっと走るけど、相手は数人だ。すぐに見つかってしまった。
「……あ?おい、あれ!あれじゃねえか」
「おい、そこ!まて!」
兵たちが追ってくる。
足音が近い。
「逃がすな!」
シイは咄嗟に、森の茂みへ向かって走った。
木々の影に飛び込み、すぐにたぬきの姿に変わる。
体が軽くなる。荷物をまとめて咥えて、岩陰に隠れ息ををととのえた。
気配が薄くなり、森はしんと静まり返った。
兵たちは森の入口で足を止めた。
「……消えた?」
「本当に見たのか?」
「いや……どうかな」
「逢魔時だしな。ちっ」
拍子抜けした、というように兵士らが話している。
辺りは暗くなり始めている。人間はそういう時、目が慣れなくて幻を見やすいって誰かが言ってた。薄暗い森に自分の目が光らないように、シイは視線を落としてぐっとこらえた。
「くそ、何だってんだ。一通りさがすぞ!」
そう言って足跡は遠ざかっていく。
シイはふう、と詰めていた息を吐き、そっと森の奥へと進んだ。
追手の気配と離れるのを確認し、再び人の姿に戻る。
ざ、ざざ、と茂みを踏む音がする。
足は痛むし、体も重い。
それでも、歩き出した。
一歩進むごとに高国に近付いている、そう自分に言い聞かせて。
森の奥へ逃げ込んだシイは、度々休憩を挟みながら進んだ。
どっちに進めばいいかは分かる。ひたすらに、東を目指した。
人の通る街道は追手が張ってるだろうから、シイは山道を通ることにした。
山陰から鎌倉へ向かうには、険しい山道を越えなければならない。
人足が全く入っていない深い森を延々と歩く。二本足では難しいから、たぬきの姿になることも多かった。その方が嗅覚も研ぎ澄まされて、危険を察知しやすい。
木々の間を縫うように進み、岩場をよじ登り、黙々と足を進めた。
足の傷がずきずきと痛む。けれども、止まれば寒さで体が固まってしまう。
夜になると、山は一層冷え込んだ。
シイは木の根元に丸くなり、たぬきの姿に戻って体温を保つ。土と落ち葉が温かかった。
狼の群れにも囲まれた。
縄張りを横切ったことに、囲まれるまで気づかなかった。
低い唸り声が四方から響く。
シイはたぬきの姿に戻り、素早く木に登った。
狼たちはしばらく木の下で吠えていたが、やがて諦めて去っていった。
シイは再び歩き出した。
熊の寝床を見つけた時は恐ろしくて、一度街道まで降りて見たことがある。
里山を抜け、民家が見えてくるとほっとした。
シイはもう、森よりも人里の方が心が落ち着くようになってしまったのかもしれない。
歩き進めると、人の往来が多く、荷を運ぶ馬や商人たちが行き交っている街道を人間に紛れて進む。
しかし、街道には要所には武士が立っている。
「隠岐島から逃げたらしい。怪しい者がいたらすぐに知らせろ」
「そりゃあ物騒で……」
「心配いらねえよ。六波羅から軍が出てる。すぐに収まるさ」
そんな会話をしているのを見ると、シイは身を縮めた。
その時、武士の一人がこちらを見た。
「おい、おまえ——」
シイは反射的に走り出した。
痛む足を引きずりながら、必死で裏道へ逃げ込む。
「おい!?」
まさかシイなんかをわざわざ追いかけてはこないと思うけれど。あの島からたくさんの人間が抜け出したとかで、関所は妙な緊張感に包まれていた。
そこまで深追いして追ってくることはなかったから、シイはまた森に潜った。
大きな街道を避け、裏道や畑のあぜ道を通りながら、森と街道とを行き来しつつ、少しずつ東へ進んでいった。
目指すものがあるから、少しも寂しくも怖くもなかった。




