捌 託された綸旨
シイは森を駆け抜けた。
今夜の月は細い。薄暗くて、黒い雲も流れて森には深い影を落としている。
たぬきの姿で森を抜ければいい、本能的にそう思った。
その勘は当たっていたようだ。
森の奥から聞こえてきたのは、聞き慣れない足音。
「こっちだ!御所の周りを探せ!」
「島の者ではないぞ……いや、とにかく通る者は全て検めよ!」
シイは息を呑んだ。
御所様の計画が、どうやら漏れている。
綸旨を持ち出した途端に追手がかかるなんて。あまりにも早い。
だからシイに託したのだろうか。
足音は二つ、三つではなかった。
十、二十……もっとだ。
シイは慌てて木の根元に身を伏せた。
いくつかの足音はすぐ側までやって来る。
「御所の周りに不審な影があったと聞いた。子供だという噂もある」
「子ども? まさか……」
「油断するな。人に化ける妖もいると聞く」
シイの背筋がぞくりとした。
ばあちゃんの言葉が蘇る。
『あいつらはね、自分達と少しでも違うものには、ものすごく敏感なんだよ』
息を止め、気配を消す。たぬきの姿であれば、気配が薄まる。見つかる事はまずない。
身を無くしたこの木の根本だって、うろのようになっているから。
ただ今のシイは、たぬきの格好にたすき掛けで荷物を背負っている。こんなたぬきはいないから目立ちすぎてしまう。
——僕がリスだったら、綸旨を丸めてほお袋に入れられたのに。
鷹のように翼もなく、熊のように力強い筋肉もない。小さなたぬきに過ぎない自分は、身を隠して行くしかない。鎌倉は、途方もなく遠い地に思えた。
兵たちの足音がすぐ近くを通り過ぎていく。
——逃げなきゃ。
シイは木の影から影へ、するりと滑るように走った。
森の中は得意だ。
けれども、今日は兵の数が多すぎる。
「いたぞ!そこ、影が動いた!」
「小さくないか?ただの獣じゃ……」
「いいから追え!」
シイは心臓が破裂しそうになりながら、必死で走った。
足の裏に枝が刺さっても、転んでも、痛みを感じる暇はない。
いっそ森を抜けてしまった方がいいだろうか。森の中にこんなに捜索の人手が入るとは思っていなかった。
久しぶりにたぬきの姿になったせいか、うまく枝をかき分けながら走るのが、すごく難しい。
切り立った崖の方へと抜けていく。
その時。
「シイ!」
小さい低い声が闇の中から響いた。
崖の下、暗がりで僅かに影が動く。
太郎だ。
「こっちだ!」
シイは小さな足場を飛び越えて、崖の一部にするりと滑り込んだ。真っ暗で何も見えないけど、潮が引いてる間だけ現れる小さな洞穴のようだった。
「シイ、だよな……?」
伺うように声をかけられる。今は雲が少ない月明かりを隠した。追手がいるから灯りも消している。夜目が利く方だった流石の太郎も、目を凝らしながらよく見えてないようだった。
シイは岩陰で人の姿に戻った。
「なんでわかったの」
ホッとしたような太郎の息遣いが聞こえる。
「——御所様に呼ばれたところまでは把握してたんだよ。そこから急に姿が見えなくなって、追手がかかったからな」
「それだけで……」
「あとは、まあ、勘だな。お前のような気がした」
随分と勘が良い。
「御所様から何を受け取った」
「綸旨」
短く言った台詞に、太郎が息を呑むのが分かった。
これは、本当にとんでもないものなんだ。
短い時間だったが、太郎が考えこむのが分かった。それでも、はるか遠くに人の気配がして、いつまでもそうしてはいられないと思ったようだった。
「そうか、出されたか。——だが追手が多すぎる……動きが漏れたな」
「……どうしよう……」
「ご主人様のご下命は、御所様に従え、だ。綸旨が出たのなら、それは命に変えても守り抜け」
そこまで知っているのなら、いっそ太郎が運べばいいのに。シイなどよりよほど腕も立つし、人間の世界の事をわかっている。
でも、誰も信用するなって御所様は言っていた。信用せずにこの島から出る事なんてできないし、一体どうすればいいのやら。
「……………」
「どうした?怖くなったか」
「御所様はこんなの出して、大丈夫なのかな」
「馬鹿だなお前、自分の心配をしろよ。あの御所様だぞ?名和氏とずっとやりとりして——いや、それはもういいから。お前は自分のことを考えろ」
御所様には一人に見えて、実は味方がたくさんいる。今頃は御所様もこの島から脱出しているのかもしれない。
「舟を、この下の浜の岩陰に隠してある。お前なら降りられるだろう?今は季節風がある。船に乗って半日も漕げば対岸に着く。——いいか、すぐに帆は張るなよ」
「太郎は——」
「俺は囮になる」
太郎はそう言って風呂敷包みを背負った。まるでそこに、何か重要な手紙でもあるかのように。
太郎は笑った。いつもの、少し意地悪そうな笑い方だった。
「いいか、その手紙はな、ただの手紙じゃない。この先、歴史を動かすとんでもないものだ。絶対に守り抜けよ」
どうしてここまで危険を冒せるのだろう。
シイは、高国に届けると思うから力が湧いた。高国に会えるかもしれないし、これが高国のためになるかどうかは分からないけれど、彼にも関係する、大切なものだというから。
でも、太郎は一体、何のためにそこまでするのか。シイにはわからなかった。
けれど、太郎の目に一切の迷いがないから。それが人間だからこその何かなんだろうと漠然と思った。
「行け——走れ!」
太郎はシイの背を押し、反対方向へ飛び出した。
兵士の気配がする。
太郎の駆け出した足音に反応して、多くの追手がそちらに向かっているようだった。
「誰だ!止まれ!」
「こっちだ!逃がすな!」
人の気配がものすごい速さで遠ざかっていく。
シイは太郎に言われた通り、人の姿のまま崖を降りて船に乗った。
舟は小さく、頼りなかった。大波が来たらたちまち転覆しそうな程小さい。
そもそもシイは船の乗り方をほとんど知らない。
けれども、これしかない。
誰かに乗せてもらえるわけもないし、泳いで渡っていては、墨で書かれた綸旨は全て滲んで読めなくなってしまうだろう。少しくらいは濡れても大丈夫なように、シイは体に綸旨を括りつけ、その上から着物を着た。
シイは震える手で舟を押し出し、さっと舟に飛び乗る。
櫂を握ると、想像以上に重たい。それを必死に動かし続けるとあっという間に手が痺れ始めた。
強い風が吹いているから、帆を張ればぐんと進むだろうけれど。それだと目立ちすぎてしまう。舟はぎこちなく進むが、波に押されて左右に大きく揺れた。
ふと、雲の合間から僅かに月明かりが漏れた。
無情にもシイの乗った船を照らす。
次の瞬間、浜の方から怒号が響いた。
「舟だ! 誰か乗っているぞ!」
ものすごくこぎ続けたと思ってたのに、大して進んでもいなかったらしい。浜の見張りに見つかってしまった。
「追え!」
その言葉に、シイは必死で櫂を動かした。いっそ獣の姿に戻って、泳いだ方がいいのかもしれない。この姿は目立ちすぎる。
波が高くなり、舟が跳ねる。シイは必死で舟の縁にしがみついた。
兵たちの松明が浜に並び、光が揺れている。
「弓を持て!逃がすな!」
矢が海に突き刺さり、波が跳ねた。近くの海面に無数の矢が降り注いでいる。
シイは身を伏せながら、櫂を動かし続けた。
その時、海の向こうから風が吹いた。
強い、春の風だ。
舟がぐんと押され、兵たちの矢は届かなくなった。
「風……!」
シイは櫂を握り直し、風に乗るように舟を進めた。どんどん浜が遠ざかっていく。
それと同時に波は荒れ始め、空にはまた分厚い雲が広がる。
やがて、雨が降り出した。風はさらに強くなり、舟は大きく揺れる。
天気があっという間に変わっていった。
「うわっ……!」
シイは大きく揺れる舟から投げ出されそうになりながら、必死で縁にしがみついた。
雷が鳴り、空が裂けたように光る。
「ひっ……」
雷は怖い。山では大火事になるし、落ちれば即死。こんな身を隠す場所もない海面では——。
シイは船にしがみつくしかできなかった。よりによってはじめて一人で舟に乗った日に、こんな嵐になるなんて。
舟は波に飲まれ、シイの体は海へと投げ出された。
冷たい。
息ができなくて、上も下も分からない。
シイは必死で水をかいた。どれほどもがいたか分からない。海水が口に入って、沢山呑み込んでしまった。胸が焼けるように痛い。
意識が遠のき、視界が暗くなっていく。
最後に浮かんだのは——高国の、あの優しい目だった。
「……たか……くに……さま……」
苦しい時、痛い時、大丈夫だよって言ってくれた。
怪我をしても、何もできなくても、それでも大丈夫だって。
シイはその名を呟きながら、やがて意識を手放した。
小さな体は、波に揺られながら、遠い海へと流されていった。




