柒
それから、数日後のことだった。
御所様はいつものように焚火に当たりに来たと思ったら、シイを手招きした。何かと思えば、着いてこいと言ってそのまま屋敷に入っていく。
滅多に屋敷に入ったことのないシイは少し遅れてついて行った。
御所の奥にある小さな部屋へゆっくりと連れて来られる。
シイの泥のついた着物と足では躊躇われたが、御所様は、そんなことはいいから入れ、という。
薄暗い灯りがついていた。御所様は机に向かって座る。今まで使っていたのだろう、硯の墨はまだ濃く香り、筆先にも黒い墨が残っている。書き終えたばかりなのだと、シイは気配で悟った。
「そこに座れ」
指示されたのは御所様のすぐ脇だった。シイはすとん、とそこに座った。
御所様は筆を置き、ゆっくりと巻物を巻き上げた。
「……完成だ」
その声は、どこか張りつめていた。御所様が巻物を軽く持ち上げて見せた。
「論旨」
「ろんし……?」
「余だけが出すことのできる手紙を、そう言う」
御所様は巻物を机に置き、指先で軽く叩いた。
その仕草には、今までと違う、何か決意のようなものが滲んでいる。
「そなたの主の名を教えよ。余が随分前からこれを書いていることは、もう知っているのだろう」
御所様はシイの目をまっすぐに見た。その視線は逃げ場を与えないほど真剣で。
シイは息を呑んだ。
確かに、御所様が何かを密かに書いていることは伝えていた。
しかし、それを邪魔する者は誰もいなかった。それはつまり──その意志を尊重し、協力する者が周囲にいるということだ。
「——この前聞いたら、まだ名乗っちゃ駄目って言われたから」
「それでは、話が進まぬのだ」
御所様の声は静かだが、どこか焦りが混じっていた。
シイは胸の奥がざわつくのを感じた。
この人は、今、と決めたのだ。
この決断をするまでに数カ月。そして、次こそはと、身命を賭した賭けに出た。
一度手ひどく敗れたからこそ。ここまでかかった。
シイとの日々で、決断した。だったら今が話す時だ──そう思った。
ただの直感だったが、ここで逃げてはいけない気がした。
シイは、ずい、と一歩前に出て、深く息を吸った。
「僕の、大切な人の名前は——高国様」
高氏の事は言えないけど。きっとこれで分かる。分からないのなら、縁がなかったという事だ。
だが、御所様はすぐに気付いたようだった。
その名を口にした瞬間、御所様の表情がわずかに揺れた。
ほんの一瞬だったが、確かに変わった。
驚きか、喜びか、それとも別の感情か──シイには読み取れない。
「……足利、高国か」
「うん。すごく、優しい人」
御所様は目を伏せ、机の上の巻物に視線を落とした。
その横顔には、複雑な影が差している。
「優しいとは……余が聞いていた印象とは、違うな」
御所様は何かを思い返すように目を閉じた。明かりの中では、この人は少し年老いて見える。
「ああ……そう言えば昔、話をしようとして、逃げられたと聞いた。手荒な真似をしてしまったから……余は嫌われておるやもしれぬ」
ぶつぶつと、御所様は自問しているようだった。
「そうか、足利……」
やがて御所様が顔を上げた。その目がじっとシイを見つめてくる。
「余は、そなたに頼みがある」
「なに?」
御所様は机の上の巻物を指した。
「論旨、余の意を記した文——これを島外に出すことは許されておらぬ」
シイは巻物を見つめた。
その表面には、まだ乾ききらない墨の匂いが漂っている。
許されない、と言うのだから、それを成したいと言っているのだろう。
「いくつもの人手を経て、それぞれの場所へ辿り着くようにしたい。どれほど手を尽くしても安心という事はないのだが……足利へは——そなたに頼みたい」
「高氏様に?」
御所様は首を振った。
「いや。それでは危険が高すぎる。高国に届けよ」
高国に──。
その言葉が胸に落ちた瞬間、シイの心臓が跳ねた。熱が胸の奥からこみ上げ、指先まで震えが走る。
御所様はシイの反応を見て、わずかに微笑んだ。
「余程好いておるのだな。その忠義を——余は、そなたを頼りたい」
その言葉は、静かに、しかし確かにシイの胸に届いた。
「誰にも知れずに……?」
できるだろうか。そう思ったシイに御所様は重ねた。
「闇に紛れ、獣に化け、気配を察知し、身を隠しながら進め」
シイがたぬきに化けられると知って、考え付いたのだろうか。
そう言う頼られ方は困った、と顔に出すシイの手を、御所様が握った。
「頼む。そなたならば、必ずやり遂げる」
シイはじっと論旨を眺めた。何が書いてあるのかもわからない。
無事に届けられるかわからない。——でも、届ける先は、高国。
胸の奥に、熱いものが広がっていく。
高国の顔が浮かんだ。
優しく笑う顔。自分を抱きしめてくれた腕の温もり。
そのすべてが、シイの背中を押した。
「……うん。わかった、やる」
御所様は満足げに頷き、巻物を両手で持ち上げた。
シイは両手を差し出し、慎重にそれを受け取る。
巻物は思ったよりも重かった。
「気をつけて行け。誰も信じず、そなたの手で最後まで届けよ」
シイは巻物を胸に抱き、深く頭を下げた。
「うん。必ず……届ける」
短い間だったが、妙な仲間意識のような者が芽生えていた。
お互い、疎外感を感じながらこの人間の社会で生きていたから。
別れは特に言わなかった。二度と会わないかもしれないし、またふらりと会うのかもしれない。
部屋を出ると、外の空気は冷たかった。
夜の気配が濃く、風が木々を揺らしている。
シイは巻物を布袋にしまい、深く息を吸った。
闇が、シイを包み込む。
その中で、シイの身体がゆっくりと変化していく。
骨が軋み、筋肉が伸び、皮膚がざわめく。
獣の姿へと変わる、小さなタヌキは、布袋を背負っていた。
シイは四肢で地を蹴り、闇の中へと駆け出した。
風が身体を切り裂くように流れ、木々の影が次々と後ろへ消えていく。
高国のもとへ──ただそれだけを胸に、シイは夜の森を疾走した。
いつもありがとうございます。
新学期、色々と立て込みまして
しばらく更新が……途絶えるかもしれません。
読んでいただいているのに、申し訳ありません。




