伍
御所様は、潮風に黒髪を揺らし、薄い衣をまとっている。「流人」と誰かが言っていたけれど、そうとは思えないほど気品があった。
だが、その目の奥には深い影が落ちている。
こういう目を、シイは知っていた。
世の中のすべてを恨み、絶望し——倦んでいる目だ。
「それで?水を汲んだ坊は、何をしておると?」
「畑、作ってる」
「何故?」
シイは鍬を握ったまま固まった。
何故、と言われても困る。
生きるために食べ物を確保するのは当たり前だ。
ばあちゃんも、高国も、そうしていた。
だからシイは答えず、また鍬を振り下ろした。こういうどう返事をしていいかわからない人には、答えない方がいい。そうすると大抵向こうから、飽きて離れていく。
土が跳ね、石が転がる。
しばらく時間が経っても、相変わらず視線を感じた。
シイはふう、と鍬を置いて、汗を拭った。
「見られてると、落ち着かないんだけど」
「そう言うな。余も暇なのだ」
「……ひま?」
「政も軍も奪われ、ただ生きているだけの身だ。こうして風に吹かれておらねば、心が腐る」
シイはよく分からなかったが、流人、または貴人というのは大変なんだな、とだけ思った。
自分は暇というのを感じたことがない。一日のうち、時間があっという間に過ぎる。今でも、どうにか日が暮れるまでに畑をある程度作り終えたいと思っているが、石が多くてなかなか進まない。諦めて当初の予定の半分の大きさにしたところだ。
もう夕暮れが近い。とにかく種を蒔いてしまおうと、懐から取り出した布袋からさっさと蒔いて行く。
「何を蒔いている」
「大根」
他にも色々と種を持ってきたが、一番育ちそうなのは大根だったから、今日は大根だ。ほうれん草も育ちが早いから植えたいが、この粘土質では少し難しいかもしれない。
「薬味がな……いささか不足しておるゆえ、ねぎを育ててくれぬか」
「僕、ネギ嫌い」
「好き嫌いは良くない」
「——僕が食べる物を育てるんだから、僕が好きなものを植える」
「それも、道理か」
御所様はあっさり引き下がった。偉い人なのに、意外と頑固じゃない。
シイはおかしくなって、少しだけ笑った。
その日から、御所様は毎日のように畑に現れた。今まで崖の上でぼうっとしていたのが、今度はシイの耕す畑をじっと見ながら、何をするでもなく、ただ見つめている。
時には腰を下ろし、時には空を見上げ、時にはシイの手元をじっと見つめる。
シイは最初こそ落ち着かなかったが、次第にその沈黙に慣れていった。
御所様は、時々思い出したようにシイに話しかける。シイは作業をしながらだから、大体生返事を返していた。
「余に対しかような物言いとはな」
怒るというよりは面白そうにそう言われた。そして喋ったかと思うと、また急に黙る人だった。
やがて、畑に緑が少しずつ芽吹いた。
その芽を嬉しくなってつつくシイの隣に、御所様はしゃがみ込む。高級な着物が汚れそうだけど、気にならないのかな——そう思っていたら、土を指でつまんでいた。
「良い土だ。よく耕したな」
「うん。がんばった」
「そなたは、よく動く。働くことを厭わぬな」
「だって、食べるものがないと死んじゃう」
「……余も、そなたのように単純であれたら良かった」
「単純……」
それは誉め言葉ではないのだろうけど。
「僕からしてみれば、偉い人は、単純なことを難しくしてるだけに思うけど」
食べる前に感謝の気持ちを込めて何かを唱えたり。人が死んだら、埋めるまでにあれこれと儀式を続ける。その一つ一つに、人は意味があると言ってありがたがってやっていたけれど。
御所様は土を払い、シイの頭を軽く撫でた。その手は、驚くほど優しかった。
「そなたと話していると、不思議と心が静まる」
「ほんと?」
「ああ。余は長く、怒りと悔しさと無念に囚われていた。だが、そなたを見ていると……どうでもよくなる」
「どうでもよくなっちゃだめなんじゃないの?」
御所様は目を細めた。
「……そなたは、余の心を慰めるために来たのか」
シイの目的は、この御所様の監視だ。あれからも度々太郎には御所様の様子を伝えている。毎日、変わりはない、畑を見てる、というだけだが。
こうして交流していること自体、想定外だ。
「——違うと思う」
シイはそれしか言えなかった。
御所様はしばらくシイを見つめ、それからゆっくりと視線をまた畑に落とした。
「余は……負けたのだ」
「まけた?」
「戦に。仲間を失い、国を失い、余の世界は……もうどこにもない」
シイは天皇の衣の裾をつまんだ。
「あれ」
御所様は驚いたようにシイの指さすところを見た。
小さな芽が3つだけ、少し離れた所に出ている。
「何だ」
「ねぎ。欲しかったんでしょ?植えてあげたよ」
「ほう」
御所様が驚いたように声を上げ、ゆっくりとそっちに近付く。
「嫌いだったのではないのか」
「嫌いだよ。だから、そこは御所様の場所。僕はこっち」
「余の……」
生き生きとした畑に、ポツンと小さく3つだけの芽。もっと植えればいいものを、最大の譲歩をしたとでもいうような、ささやかな少しだけの場所だ。
「そなたは……本当に、面白い子だ」
御所様はそれだけ言って、喋らなくなってしまった。
ずっとその芽を見つめていたから、きっと喜んでいるんだろうなとシイは思った。
それから数日の間、御所様は畑に来るとねぎの畝をじっと見つめていた。
穴が開くんじゃないかって言うくらい見つめているからシイも呆れた。
「——御所様、見つめても芽は伸びないよ」
「ああ……これはいつ食べられるだろうか」
「一月待った方がいいんじゃない?今食べてもすぐなくなっちゃうよ」
夕暮れ、海に日が沈む頃。御所様は畑の前に立ち、静かに言った。
「坊。そなたのおかげで、楽しみができた」
御所様はまた畑を見つめていた。
「楽しみだな」
御所様はは穏やかに笑い、ネギの横で本を開いていた。
ねぎの匂いが服につきそうだけど、本人がいいのならいいか、とシイは放っておいた。
これまでは読んでいないようだったのが、最近ではちゃんと読んでいるようだった。
一冊読んでは、また次の本に手を伸ばす。
「坊は字は読めないのか」
「よめない」
「教えてやろうか?」
「使い道ないから、いい」
「本はいい。先人が一生かけてやっとわかることが、一度読むだけで頭に入る」
シイは不思議に思って首を、かしげた。
「それってほんとにわかってるの?」
高国は勉強のためにってたくさん本を読んでいたけど、そんなことは言ってなかった。
「ふむ。深いな。しかし、字が読めれば、例えばこれ——経典が読める。経典を読めば心が整う」
シイはじっと文字を見つめた。同じようで少しずつ形が違う。それよりも、その墨と紙の香りが懐かしかった。
「僕の大好きな人も、いつも本を読んでいたんだ」
「ほう。良い師を持ったな」
「師じゃない。……大好きな人」
元気だろうか。こんな事をすることで、本当に高国の役に立てているのだろうか。
「すごく……優しい人だよ」
御所様は経典を閉じた。
「お前は誰の手のものだ?訛りはないな」
「僕は山人だから。人里にはあまり降りないからだよ」
「ほう。それで?その好きな奴に言われてここに来たのか」
「違うよ」
「そなたは、ここへ行けと命じた者の童だったのではないのか」
言っている意味が分からないから、シイは黙った。
「寵を受けていたのではないのか?そう言われると、納得する」
寵を受ける——その意味は、シイもさすがに分かった。
真っ先に浮かぶのは高氏の顔だが、名前を言ってはいけない事くらいシイにも分かる。その高氏の夜伽の相手と思われるのは、あまりにも心外だった。
「違うって言ったでしょ。この話は終わり」
ぶっきらぼうに言い放つと、水をまき終わって、シイはこの日の畑仕事を終えた。




