肆
隠岐島は、鎌倉からは随分と遠いところにあった。
下野国から鎌倉へ来た時も大変だった。道は分かりにくいし、獣よりも人の方が怖くて。
今回は鎌倉からの護送に随行する形だから、護衛もいるし食事も提供される。何日もかかってようやく出雲国の関所に辿り着く。シイは一番の下っ端として、列の最後にひっそりとついて行った。
人々の群れに昔ほど恐怖心は抱かなくはなった。ただ、群れの中ではどうしても浮いてしまうのが分かっていたから、シイは敢えて人とは交わらずにやり過ごした。下人が言葉を話せなくとも気にする者はいない。もしかしたら外国人と思われているのかもしれなかった。
そうして関所から更に船で1日。気の遠くなるような日々を経て辿り着いた隠岐島は、海風が強く、湿度が高い地だった。
——いいか、こいつが時々島人に紛れて島に入る。目印を掲げるから、その時に見聞きしたことを教えろ。
高氏からは男を1人紹介されただけで、指示はそれだけだった。
仕える貴人というのが誰なのかもよくわからない。
そのうちわかる。よくわからないが下働きをしろと言われた、というくらいがいいだろう、との事だった。
粛々と輿が運ばれ、数人だけを残して去っていく。島の船着き場には仰々しい見張りが常に立っている。島の出入りはこの貴人が死ぬまで、相当厳しくなるのだろう。
かの貴人は、『御所様』と呼ばれていた。シイもその人たちに倣って御所様、と覚えたが、輿の中は何か嫌な感じがしてシイはできるだけ近づかないようにしていた。
ただ、様子を見ておけと言われるから、注視はしている。
『御所様』は、あまりじっとしていない人だった。
ふらりと屋敷を出ては、崖の上から海岸線を見ている。シイは自分の仕事をしながらその様子を眺めていた。
島について数日後、合図があった。
「落ち着いたか?」
高氏が紹介した男は、名を太郎と言った。印象のうすい男だった。
この島の漁師をしていると言うのに、魚の匂いのしない男だ。
何をもって落ち着いたというのかはわからないから、シイは黙っていた。
誰も来ないような猟師の船着き場、壊れかけた小舟が数艘繋いである。今日は波が高いから誰も漁には出ていないから、閑散としていた。
太郎は網を補修するふりをしている。その手つきだけは、熟練の手のようだった。
「——御所様はどうしてる?」
「屋敷の中にいるってことになってる」
太郎が不思議そうに顔を上げた。
「ことになってる?」
「黒木のお屋敷には、ほとんどいないよ」
「どこにいる」
太郎が顔色を変えた。
「誰と会ってる?」
詰め寄られると、独特の雰囲気がある男だ。普段はうっすらとして気の弱いような印象なのに、凄むと急に隙がなくなる。——きっとこっちが本当の姿なんだろうな。
まるでゆっくりと忍び寄る狼のような男だとシイは思った。
「島の人。ほんものの」
「ほんものって……」
「太郎は、にせものでしょ。匂いが違う」
匂いと言われて、太郎は変な顔をした。一応自分の袖を匂ってみるが、特に気になる匂いはない。
「にせものってのは、他にもいるのか?」
「ちらほら」
「そいつらと御所様は会ってないのか」
「ほとんど会ってないよ。御所様は、いつも一人であそこらへんとかにいる」
シイが指したのは小高い崖の上だった。
「そこで何してる」
「本を読んだり、遠くを見たり」
「本——何か、手紙が挟まったりは」
「ずっと同じところを見てるだけだし、ろくに読んでないよ」
御所様は何度も崖の下を見たり海の遠くを眺めたりしていた。ぱらぱらと同じところの頁を何度も見ては、また一日呆然として過ごす。
「そうか。まあ、まだ来たところだからな。引き続き監視を続けろ」
そういえば、この仕事はいつまでやればいいのか聞くのを忘れていた。
高氏も肝心なことは聞かないとほとんど教えてくれないから、聞き忘れた自分が良くないんだけれど。
用事が終わったのかと、シイは籠を背負いなおした。
「——お前……その恰好は何だ」
シイは籠を担ぎ、鍬を持っていた。
貴人の世話人にはとても見えない。どう見ても農民だ。
「土地があるから、畑を作ろうと思って」
監視をしろと言われたが、御所様は動かないし、暇なのだ。
土地勘のない島で森に入るのもなんだし、せっかくだから農民の真似事でもしようかと思った。
数年前に農家の手伝いをして仕事を覚えたから、きっとうまくできるはずだ。
「おまえは……下働きなんじゃねえのか」
「別に、何をしろとは言われてないから」
水を汲めと言われることはある。けれど、ここに残った人は皆それほど忙しくもなさそうで。
シイの仕事もそれほどなかった。
人の輪に入るのも難しいから、一人でできる仕事を探したのだ。
「——じゃあ、用事が済んだのなら僕は行くよ」
まだ日の高いうちに耕してしまいたい。
土地は余っているから好きにしていいと言われている。
シイは太郎を置いて畑へ向かった。
そうして数日を野良仕事に夢中になって過ごした。
たまに頼まれる仕事は、洗濯とか掃除とか——ほとんどしたことがないことばかりで、やり方がよくわからない。汚れが落ちてないだとか破れただの壊しただの言われ、要するに、失敗続きだった。
失敗してもシイは気にしないどころか、「僕にはできないよ」とあっさり投げ出す。
次第に誰もシイには物を頼まなくなった。
話しかけられる事もなく、煩わしいものがなくなって、シイは快適に暮らし始めていた。
潮の匂いが、朝の風に混じる。この時がシイは一番好きだった。
ここら一帯は御所様の土地だ——そう言われたけど、御所様はこの岩だらけの場所を使う様子がない。使ってない所は好きにしていいと言われたから、シイは誰も来ないここを畑にすることにした。
鍬を振り下ろし、固い粘土質の土をほぐしていく。
山の土とは違う。水を含むと重く、乾くと石のように固まる。なかなか骨の折れる固い土だった。
けれど、耕せば耕すほど、土は少しずつ柔らかくなる。その変化が、シイは好きだった。
山の中ではなかなか畑を作るという事ができなかった。ずっとやってみたかったから、シイは楽しくて仕方なかった。
——その時。
「ここで何をしている」
背後から声が落ちてきた。
低く、よく通る声。
島の誰よりも静かで、誰よりも重い声。
「——全く使い物にならない童がいるときいたが、お前か?」
背後から話しかけられて、シイは草を抜いていた手を止めた。
紫の直垂に、革の靴。洗練された公家の格好はこの田舎の島にはあまりにも不釣り合いだ。
年は40代と聞いているが、それよりも少し若く見える。目の下の隈がくっきりと見えてやつれて見えるが、長い黒髪はまだ白髪も交じっておらず、少しも乱れていない。それを簡単に後ろで括っただけの、いかにも流人といった出で立ちではあるが、気品のようなものは隠しようもない。一目で高貴な人とわかる。
——『御所様』だ。
シイは立ち上がって向き直る。
「僕の事?」
「ああ」
使い物にならない——確かにそう言われたが、今日は一応仕事をしている。全くしていないと、追い出されるかもしれないからな。シイも一応気を遣っているのだ。
「水はくんだよ」
「ほう」
御所様はおかしそうに眉を上げて、シイをまじまじと見つめた。




