五.旅は道連れ
泣いて泣いて、どれくらいたっただろうか。サクはそっと身体を離した。見上げた父長の目も心なしか赤くなっていて、また胸に熱いものがこみ上げる。それをぐっとこらえて、サクはにっこりと笑ってみせた。
「ありがとう、お父ちゃん。ウチ、胸はって行ってくるわ」
「おん。……お前はやっぱり、そうやって笑っとるほうがええな」
父長は、そう言って強く目元を擦る。それからしばらく、何かを言いたげに口を開いてはまた閉じるという動作を繰り返す。元来気の長いほうではないサクは、我慢できなくなって問いかけた。
「お父ちゃん? なんか言いたいことあるん?」
父長はギクリと肩を震わせたが、また下を向いて黙り込んでしまう。いよいよ我慢の限界に達したサクが無理にでも聞き出そうと口を開きかけたまさにそのとき、開いた戸の間から一人の青年がすっと姿をあらわした。
「長、言いにくいのでしたら私からサク様にお伝えしましょうか?」
父長の背後から現れたのは、色白で背の高い優男。ミツキ氏の分家の長男であるカオルである。三つ上のカオルは、サクにとっては兄のような存在だ。予想外の登場に、サクは口をポカンと開ける。
「カオル……頼んでもええか」
「ええ。さあサク様、部屋に入ってください。私が長の代わりに説明しますから」
カオルに促されて部屋に入る。そこは普段父長が仕事で使っている部屋であり、この館の心臓部と言ってもよい場所だ。実の娘とはいえ、サクも数えるほどしか招かれたことはない(忍びこんだことは数えられないほどあるのだが)。
バク様の絵が描かれた壁を背に父長がよろよろと腰を下ろす。その傍ら、板葺きの床の上に直にカオルが座り、サクは二人に向き合う位置に座った。その後ろに、先ほどまで空気をよんで物陰に隠れていたウリがトテトテと歩みよってきて丸まった。
「さて、サク様。この度はバク様から直々にお言葉をいただいたそうで。おめでとうございます」
「あ、いや……おおきに。そういえば久々なんやったな」
「ええ、そうです。サク様が倒れてから、一族のものはみなてんやわんやでしたよ」
カオルによると、サクが寝入ったあと、一族の主な者たちによる緊急集会が開かれたらしい。
『スグニサクヲ東ヘ向カワセロ。アレノ夫トナルベキ男ガイル』
数十年ぶりの氏神様の言葉に、みな動揺を隠せなかった。もちろんその御言葉に従うことに異論はない。しかし誰もその意図を理解できなかったのだ。東といえばつい最近ヤマトの支配下に入ったばかりで、異形が跋扈し蛮族がうごめく土地だと聞いている。そんな恐ろしい場所に、仮にも一族の姫であるサクヒメにふさわしい男がいると?
議論が紛糾しているところに、当代の巫女姫が入ってきた。齢40にも届こうかという彼女は、長の姉、サクの伯母にあたる人物である。巫女姫は、白くなりはじめた髪をかき上げながら一族の男たちを見渡し、こう言いはなった。
『サクは今夢の中でバク様にお言葉を頂いている。目覚めた時、すでにアヤツの覚悟は決まっているだろう。お前たちがすべきことはバク様のお考えを拝察することではない。サクが目覚め次第、東へ向かって旅立てるよう万事整えることだ』
「鶴の一声とはまさにこのことでしたね。そういうわけで、私たちはサク様が目覚めるまでの七日間、寝る間も惜しんで準備していたんです。もっとも、長はサク様のことが心配で心配でずっと沈んでいらしたんですけど……」
「え? 七日間?」
「あれ、サク様お気づきになりませんでした? 今日はあの祭りの日から数えて七日目です。その間、あなたはずっと目を覚まさなかったんですよ」
言われてみれば、心なしか感じる風も冷たくなったような気がする。せいぜい一晩くらいしか経っていないと思っていたサクは心底驚いた。同時に目覚めた瞬間のババの顔やタイチの言葉を思い出す。
(さすがに悪いことしたわ)
少し落ち込んだサクの様子を見て取ったのか、カオルは慌てて言葉を付け足した。
「いや、サク様を責めているわけではないんです。つまり、サク様が寝ている間に支度は全て終わったということなんです。旅の道具も、従者も用意しました。ヤマトのオオキミにも話は通しました。ですから……」
カオルはここで言葉を切り、チラリと父長の方を見やった。覚悟を決めたのか、ここで父長がようやく口を開いた。
「せやから、サク。お前の出立は……明日や」
――――――
父長のもとを辞したサクとウリは、自室へ戻っていた。
「ピグー」
(話が早くてびっくり。ボクとしてはありがたいけど)
「ウチも驚いたわ。……でも確かに出発延ばしてもええことないもんな。覚悟も決まったし、占い結果も悪くないし、ええんとちゃう?」
「ピググ?」
(楽天的だなあ。不安になったりしないの?)
少し意地悪く口元を歪めて、ウリが尋ねる。腕の中からサクの顔を窺うと、彼女は口角を緩めてこう返した。
「せえへんよ。ウチ一人で行くんとちゃうもん。カオル兄もユキも着いてきてくれるし。もちろんウリ、アンタもな」
その言葉に照れたのか、ウリはサクの腹にグリグリと頭を押しつける。くすぐったさに笑いながら、サクは父長の話を思い返していた。
サクの従者として旅に同行することになったのは、ミツキ氏の次代の頭脳として期待されているカオルと、炊事係のおっちょこちょい娘・ユキである。年が近く、親交のある二人を選んでくれたのは十中八九、父長だろう。サクにとっては心強い仲間である。
ヤマトを出たあと、サク一行は一度北へ向かい、オウミで冬を越す。雪が溶けたら東へ進路をとるのだが、そこからは地形さえあやふやで、どれほどかかるのかは分からない。
本来ならそれは不安を掻き立てるに違いない情報だが、サクの胸には違う感情がわきあがってきていた。
「ほんまのこと言うと、ウチは結構ワクワクしとんねん」
人間は大きく二種類に分けられる。ある日突然目の前に知らない穴が現れたら、その穴に飛び込む者と飛び込まない者に。そしてサクは典型的な前者であった。飛び込む危険を知らないわけではなく、未知のものへの好奇心が勝ってしまうのだ。
ウリを抱えたまま、サクは自室の戸を開けて中庭に出る。太陽が西のカグヤマの上を赤く染めている。東の空は青とも藍ともつかない不思議な色をしている。少し下がった気温に励まされたかのように、虫が鳴きはじめていた。
「夕焼けってことは明日は晴れやんな」
「ピグッ」
ウリが答えるように鳴いたが、思念は伝わってこない。どうやらただの相づちらしい。
秋風がサクの黒髪を揺らす。遠くの山でカラスが鳴いている。
やがて宴の用意を済ませたババが大声で呼びに来るまで、サクは紅く燃える太陽を見つめていた。




