二.バク様
気がつけばサクは一面の星空の上に立っていた。いや、よく見れば空ではなく、池に映った星影である。サクはその池が、トヨサトの北端にあるミミナシヤマの麓にある池だと気づいた。
サクにとってその池は思い出深い場所である。まだサクが幼いころ、母がよく連れていってくれた場所だからだ。「風のない夜、この池は鏡のように星をうつすのよ」と教えてくれたのも母だった。
「でも、なんでウチ池の上に立ってるんやろ」
『残念、ハズレだよ。ここはキミの夢の中さ』
どこからか若い男の声が聞こえ、サクは驚いて辺りを見回した。しかし、辺りに変化はない。謎の男がどこかに隠れていると判断したサクは声を張り上げた。
「誰や! 隠れてないで出てこんかい!」
『あー、ハイハイ。全く、度胸だけは一人前だね。もう少し怖がってくれてもよかったじゃん』
次の瞬間、突風が巻き起こった。池に波がたち、銀色の星々が波間に消えてゆく。激しい風と飛沫に襲われ、サクは思わず目をつぶった。
――どれくらい経っただろうか。風が収まった気配を感じとり、サクはおそるおそる目を開ける。水面に移る星々は、先ほどよりさらに眩しく輝いている。そして彼女の前方には、見慣れない獣が浮かんでいた。
『やあ、サクちゃん。オレがキミたちの氏神、バク様だよ。よろしくね』
「は……?」
バクと名乗ったその獣は、大型のイノシシほどの大きさだ。クマに似た胴体は黒と白の二色の毛で覆われ、蹄のある4本の脚でしっかりと支えられている。何よりサクの目を引いたのは、その長い鼻だ。口元を覆い隠すように垂れ下がり、時おりヒクヒクと動いている。
「……」
『サクちゃん? どうしたの急に黙り込んじゃって』
「……っ」
『あ、もしかしてオレのあまりの神々しさにやられて言葉もないのかな。ゴメンねー、オレが偉大すぎちゃって!』
「…………ぶっ! あっはっはっはっはっ! あかん、我慢できひん!」
『え、何!? なんでそんな笑ってんの!? オレ何かした!?』
「くっ、ふふふっ……。な、何なんその鼻……。めっちゃ長いやん……」
『見た目で爆笑してんの? ひどくない?』
腹を抱えて笑うサクに、獣は若干涙目だ。鼻も抗議を示すかのようにブンブンと大きく振られている。それを見てますます笑い出すサクに、さらに大きく鼻を揺らす獣――。結局、二人が落ち着いて話せるようになるまでに、かなりの時間がかかったのだった。
――――――
「先ほどは、えらいすいまへんでした」
所かわって、池のほとり。サクは獣相手に土下座していた。
「まさかウチらミツキ氏の氏神様やとは……。ほんまに失礼しました」
その獣――バクはと言えば、器用に背中を丸めて座り込み、じとっとした目をサクに向ける。
『オレ最初に名乗ったよね? バク様ですって。キミん家にもこれこれこんな姿だ、って伝わってるはずじゃん』
「いや、思ってたより鼻が長かったもんで……ぷぷっ」
『もう止めようか。鼻の話は禁止!』
前脚でバツを作るバク様をチラリと上目で見ながら、サクは不思議な感覚に襲われていた。あの獣を神様だと見抜けなかったのは、見た目以上に、その雰囲気があまりにも人間めいていたからだ。少なくともサクの知識の中では、神様はあんなにくだけた喋り方はしないし、笑われて拗ねたりもしない。もっと怖くて、厳かで、圧倒的だ。
「あなた様が、バク様やいうのはよう分かりました。せやけど、そのバク様がウチに何の御用でしょうか」
サクは慎重に言葉を選んで質問をぶつけた。獣がバク様だと分かってから、ずっと疑問に思っていたことだ。軽そうな雰囲気だとはいえ、腐っても偉大なる氏神様である。
(ウチみたいな小娘なんて、目にも入ってへんと思ってた)
ドキドキしながらサクが顔をあげると、バク様は一瞬ポカンとした表情を見せ、それからすぐにポンと手を打った。
『そうそう、それを言いに来たんだった。えー、サクちゃん、よーく聞いてね?」
そこまで言うとバク様は真面目くさった顔を作り、こう続けたのだった。
『キミには、東へ行ってもらいたいんだ。未来の結婚相手を助けるためにね』
――――――
バクの言葉を聞いたサクの反応は、ちょっと見ものだった。まずポカンと口をあけ、まるで言葉を知らない子どものように、「東? 結婚?」と呟く。一拍おいてその意味が理解できた瞬間、その眼をかっと見開いて、鬼のような形相でバク様に食ってかかった。
「ちょっと、どういうことや!? 意味わからん、一から十まで全部説明してもらおうか!」
『わかった、わかったからちょっと落ち着いて! そんなに睨まないで、ちゃんと説明するから!』
――バクが語った話をまとめると、つまりはこういうことである。最近、東国で化物が暴れている。困り果てた東国の神は、ヤマトの最高神、アマテラスに報告し、助けを求めたらしい。アマテラスはバクに処置を任せたのだという。
『それでオレは向こうの神様に相談したわけよ、オレが担当者ですけどどうしましょうって。そしたらやり方はお任せするのでなんとか化物を鎮めてほしい、お礼にウチの一族の息子を差し上げますって泣きつかれちゃってね』
「ふんふん。ほんで?」
『それで、だったらオレの一族の巫女を遣わして化物を鎮めようって思いついたんだ。ほら、ついでにその息子と結婚したら一石二鳥じゃん。年もちょうど同じくらいらしいしさ』
「……大体の話はわかりました。その上で、やっぱり納得できんところがあるんですけど」
『え、何? どこかおかしいかな?』
「いや、おかしいやろ。化物倒してくれたら息子をあげますって……
『実は最初は娘をどうぞって言われたんだけど、オレが断ったんだ。こう見えてもオレ、嫁さん一筋だし。そう伝えたら、では息子をって。よっぽど切羽詰まってたんだね、跡取り息子だよ。さすがにこれだけの覚悟見せられたら、ねえ? もう断れないじゃんか』
「ええええええ……」
サクは名前も知らないその息子に深く同情した。一族の跡取りは、非常に厳しく育てられる。次期の長として、同年代の子が遊んでいる時も一人鍛錬に励まなくてはならない。その苦労と努力が、全部パーになったのだ。かわいそうにもほどがある。
しかし、裏を返せばこの東国の一族はそこまで追い詰められていたということだ。化物は規格外の強さなのだろう。この神様はそれを自分に鎮めさせようというのか。
サクはバクのつぶらな瞳を見つめながら、ゴクリと唾を飲み込んだのだった。




