第九十五話:帰る場所
昼過ぎ、事務所の郵便受けに一通の封書が入っていた。
差出人の名前はない。晴斗は封を切らず、机の隅へ置いた。最近届くものには、辞職を求める投書か、切り抜かれた記事が多い。紙の厚さだけで中身を想像する癖がついていた。
窓際の棚には、健太が使っていたマグカップが残っている。白い陶器の側面に、青嵐の会の小さな印刷が入っていた。誰も洗わなくなってから、底に薄い埃がたまっていた。晴斗はそれを手に取り、流し台まで運んだ。
蛇口を開くと、金属のボウルへ水が勢いよく落ちる。スポンジでカップを洗いながら、晴斗は自分が何をしているのか分からなくなった。戻る人がいると決まったわけでもない。机を片づけたからといって、空いた椅子が埋まるわけでもない。
玄関のチャイムが鳴った。
晴斗は水を止め、濡れた手をタオルで拭いた。記者かもしれない。以前の知人かもしれない。扉の向こうにいる相手を考える時間だけが、長く感じた。
鍵を開けると、結衣が立っていた。
紺色のトートバッグを肩に掛け、髪を後ろで一つに結んでいる。いつも持っていた細いノートは、手の中になかった。晴斗は何か言おうとしたが、喉が固くなった。
「急に来て、すみません」
結衣は廊下へ視線を落としたまま言った。笑ってはいない。その顔を見て、晴斗はようやく玄関から半歩退いた。
「入って」
結衣は靴をそろえ、事務所の中へ入った。以前なら、掲示板の予定表を見て、机の上のチラシを気にして、すぐに仕事の話を始めていた。今日は部屋全体を一度見渡したあと、壁際の折り畳み椅子へ目を止めた。そこには、まだ美咲の名札が掛かっている。
「審査会に、資料を出したと聞きました」
晴斗は流し台の前に立ったまま、うなずいた。
「出した。入手した経緯も」
結衣は鞄を床へ置いた。布が床に触れる小さな音が、やけに大きく響いた。
「匿名で流すのは、やめたんですね」
責めるでも、褒めるでもない言い方だった。晴斗はカップの縁についた水滴を、親指で拭った。
「やめた。あれを出せば、神崎は困ると思った。でも、困るのは神崎だけじゃない」
言葉にすると、昨夜の画面がまた浮かんだ。宛先欄に並べた社名。送信予約の時刻。あの数分間に、自分は誰のことを考えていただろう。街のことだと言いながら、自分が負けたくないことしか見ていなかった。
結衣は空いた机の前へ歩いた。そこには、以前二人で作った駅前再開発の資料が置かれたままだった。数か月前の付箋が、端から剥がれかけている。
「私は、戻ってきたわけじゃありません」
背を向けたまま、結衣は言った。
晴斗の手が止まった。
「分かってる」
言えたのは、それだけだった。分かっているつもりでも、戻ってきてほしいと願っていた自分を否定はできない。
結衣は振り返った。
「木島さんを許したわけでもありません。あの時、止められなかったことも、私はまだ整理できていません」
その目には怒りが残っていた。晴斗は目をそらさなかった。相手がようやく口にした痛みから逃げる資格はないと思った。
「うん」
晴斗は返事の後で、何も言えなくなった。結衣の言葉を急かさずに待つことさえ、これまでの自分にはできなかった。
「でも、神崎さんたちに、あの資料を消させたくないんです」
結衣の声は次第に硬くなった。
「誰かが怖がらされたからって、工事の金がどこへ流れたのかまで、なかったことにされたら困ります。怖がらせたやり方は間違っていた。でも、だからって街の問題まで沈める理由にはならない」
晴斗は洗ったカップを伏せた。水が一滴、流し台へ落ちた。
自分は、正しい目的と間違った手段を一つの塊にしていた。だから批判された時、すべてを奪われたように感じたのだ。結衣は、その二つを切り分けている。自分ができなかったことを、目の前でやっていた。
「何をすればいい」
晴斗が尋ねると、結衣は少し意外そうに眉を動かした。
「資料を、全部見せてください」
その要求は、助け舟ではなかった。自分の過去を曖昧なままにしないための、最初の条件だった。
「全部?」
晴斗の問いに、結衣は机上の引き出しへ視線を落とした。そこに触れたくないものがあることを、もう知っているようだった。
「コピーだけじゃなくて、いつ、誰から、どうやって受け取ったのかも。都合の悪いことも含めてです」
晴斗は引き出しの鍵へ手を伸ばした。黒い手帳、USB、電話の記録、会った場所を書いたメモ。触れたくないものほど、奥にしまっていた。
鍵を回す音がした。
「見てほしい」
晴斗は引き出しを開けた。
「隠したまま、また誰かに判断させるのは嫌だ」
結衣はすぐには机へ近づかなかった。資料を見れば、また深いところへ入る。そこには、晴斗がどんな顔で誰と会ったかまで残っている。それでも結衣は鞄から薄いノートパソコンを取り出し、空いていた机へ置いた。
電源が入る青白い光が、紙の上を照らした。
「今日は、ここまで確認します」
結衣は椅子を引いた。
「私一人では決めません。必要なら、若林さんにも、弁護士にも見てもらいます」
晴斗は向かいの椅子へ座った。以前の場所へ戻ったのではない。戻れるはずもない。
ただ、誰もいなくなった部屋で、初めて自分以外の手が資料へ伸びた。




