第九十四話:手を離す
朝の議員会館は、掃除機の音から始まっていた。
晴斗が事務所へ戻ると、廊下の向こうで清掃員がモップを動かしている。昨夜から一度も眠っていない目には、白い床が妙に眩しかった。鍵を開け、机の上に置いた封筒を見た。表には、自分の字で「政治倫理審査会提出用」と書かれている。
書き間違えた文字を直すことはできる。封筒を引き出しへ戻し、昨夜のことをなかったことにすることもできる。
晴斗は上着を脱がずに椅子へ座った。パソコンを開く。匿名投稿の下書きは消えていた。履歴にも残らないよう、何度も確認した。消したことに安心するのではなく、消さなければよかったと思う自分を探しているようだった。
午前八時半、議会事務局から電話が入った。
「木島議員でしょうか。審査会の追加資料について、確認をお願いしたいのですが」
職員の声は事務的で、慎重だった。晴斗が何か強い言葉を返すのを恐れているようにも聞こえる。その声を聞いた瞬間、胸の奥に鈍い重さが落ちた。自分は、こういう声を作ってしまった。
「今から持って行きます」
晴斗はそう答え、封筒を鞄へ入れた。職員は一拍遅れて、分かりましたと言った。
庁舎前には、すでに数人の記者が集まっていた。朝の通勤客が足早に脇を通る。晴斗の顔を見て、足を止める者もいた。昨日までのように裏口へ回ることもできたが、今日は正面の階段へ向かった。
「木島議員、匿名で資料を流す準備をしていたという報道があります。事実ですか」
マイクを差し出した記者の腕が、晴斗の行く手を塞いだ。カメラの赤いランプが点く。答えれば切り取られる。黙れば、また都合の悪いことを隠したと言われる。
晴斗は階段の途中で立ち止まった。
「匿名で資料を出すことは、もうしません」
声は掠れていたが、逃げずに届いた。
「資料の扱いも、入手した経緯も、審査会で説明します。僕が職員の方々を怖がらせたことまで、正しいことだったとは言いません」
記者たちが一斉に質問を重ねた。誰に指示されたのか。資料はどこにあるのか。神崎県議の関与を示すものなのか。晴斗はその場で答えなかった。今までなら、相手が答えを欲しがるほど、こちらが握っているものを見せたくなった。だが、知っていることを投げつけるだけでは、また同じ場所へ戻る。
会釈だけをして、晴斗は庁舎へ入った。
政治倫理審査会の控室には、長机が二つ並んでいた。壁際の時計は九時を指している。事務局の若い職員が、提出書類の一覧を確認していた。晴斗が近づくと、その人は立ち上がったが、目を合わせるまで少し時間がかかった。
「追加分です」
晴斗は封筒を差し出した。
職員は受け取ろうとして、手を止めた。
「中身を確認してもよろしいですか」
当たり前の確認だった。けれど、以前の晴斗なら、信じていないのかと問い返していたかもしれない。晴斗は鞄を床へ置き、封筒の口を自分で開いた。
「お願いします。コピーを取るなら、僕の前でなくても構いません。必要なら、保管場所も記録してください」
職員は目を見開いた。透明なクリアファイルから、契約変更の控え、黒い手帳の写し、受け渡しの日時を書いたメモを順に出す。最後の一枚には、相沢や係長と会った場所、晴斗が口にした言葉まで書いた。
自分に不利な部分を残すことは、怖かった。神崎へ渡す刃を、自分で研ぐようにも思える。
それでも、都合のいいところだけを出せば、また誰かに説明を背負わせることになる。
「この記録も、出すんですか」
職員はメモを指で押さえた。紙の端が少し震えている。
「出します」
晴斗は答えた。
「僕が何をしたかを、僕だけの言葉で決めたくありません」
控室の外で、始業を知らせるベルが鳴った。通路を急ぐ靴音が、扉の向こうを何度も横切る。職員は資料を揃え、受領印を押した。その赤い印が紙に落ちるのを、晴斗は黙って見ていた。
手続きに預けたからといって、罪が消えるわけではない。神崎が消えるわけでもない。自分を信じていた人たちが、すぐに戻るわけでもなかった。
それでも晴斗は、封筒を渡した後の軽くなった鞄を持ち上げた。これまで手放したのは、人の手ばかりだった。今、ようやく自分が握っていたものを、他人の目の届く場所へ置いたのだった。




