第九十三話:送信されない夜
夜の十一時を過ぎても、議員会館の廊下には蛍光灯が残っていた。
晴斗の事務所だけ、扉の下から白い光が漏れている。机の上にはノートパソコンと、茶色い封筒と、途中で冷えた紙コップのコーヒーが並んでいた。パソコンの画面には、報道各社の情報提供窓口が表示されている。宛先を入れ、本文を書き、添付欄へ契約変更の一覧を置く。あとは送信の文字を押すだけだった。
黒い手帳から写した数字は、静かに並んでいる。工事名、変更額、決裁日、関係する会社。名前を伏せても、事情を知る人間には誰が渡した情報か分かるだろう。晴斗はそのことを承知で、伏せる方を選んでいた。
公にするなら、急がなければならない。
神崎側は、晴斗を脅迫した議員として追い込む記事を流した。次に資料の保全が始まれば、庁内の書類はきれいに整えられる。今夜を逃せば、数字のつながりは消えるかもしれない。そう考えると、指先は送信ボタンの上から動かなかった。
机の端で携帯電話が震えた。画面には、見慣れない固定電話の番号が出ている。
晴斗は一度だけ息を止め、それから通話を押した。
「木島さんでしょうか」
受話口の向こうの声は、低く、疲れていた。名を名乗らなくても、晴斗には分かった。相沢の妻だった。以前、相沢の自宅近くで一度だけ顔を合わせたことがある。あの時は、もう連絡をしないでほしいと言われた。
「はい。木島です」
自分の声が、思ったより乾いて聞こえた。廊下の換気扇が、遠くで一定の音を立てている。
「夫は、明日、調査に呼ばれるそうです」
妻の言葉は責める調子ではなかった。その平らな声音が、かえって晴斗の胸へ沈んだ。相沢が何を話したのか、誰が連絡したのか、晴斗には分からない。だが、神崎側が晴斗の周囲を一人ずつ崩していることだけは分かっていた。
「僕から、何かしたわけではありません」
言いかけて、晴斗は自分の言葉を嫌った。していないことを言えば、したことまで薄まるような気がした。相沢を夜の公園へ呼び出し、顔色の変わる様子を見ながら、資料のありかを尋ねた。直接、家族の名を口にしたわけではない。それでも、相沢は家へ帰ってから何を思っただろう。
「そうですか」
短い返事のあと、相手はしばらく黙った。電話を切るのを待っているのだと、晴斗は思った。
「木島さん。夫は、間違ったことをしたのかもしれません」
声が少しだけ揺れた。
「でも、子どもの前では、これ以上、怯えた顔をさせないでください」
晴斗は返事をできなかった。机の上の封筒へ視線を落とす。そこには、相沢が持ち出した複写資料も入っている。資料が記事になれば、神崎は相沢を裏切り者として使う。守るために匿名にしたつもりのやり方が、結局は相手を闇の中へ置き去りにするだけかもしれなかった。
通話が切れた後も、携帯電話は耳に当てたままだった。
晴斗は立ち上がり、給湯室へ行った。蛇口をひねると、しばらく赤茶色の水が出た。夜間に誰も使わない建物では、管に残った水まで冷えている。手のひらを水に浸し、指の熱が失われていくのを待った。
戻ると、画面の右下に送信予約の時刻が出ていた。午前零時。自分で設定した時刻だった。
あと七分。
晴斗は椅子へ座らず、机の脇に立った。頭の中には、記事の見出しが浮かんでいる。県議と市長、ゼネコン、変更契約。市民は驚くだろう。神崎は否定する。議会は混乱する。その混乱の中で、誰かがまた事情を聞かれ、家の前へ車が止まり、電話を取れなくなる。
それでも、黙っていれば何も変わらない。
そう言い聞かせてきた言葉が、今夜は自分を急かす声にしか聞こえなかった。
晴斗は予約送信を解除した。確認画面が現れ、削除しますか、と尋ねてくる。たった一行の問いだった。
「……しない」
誰もいない部屋で、晴斗は呟いた。送信もしない。資料も消さない。自分だけが握ったまま、正しさの証明に使うこともしない。
添付ファイルを外し、本文を選択した。画面から文字が消えるたび、胸の内側で何かが剥がれるようだった。最後に残った宛先も消すと、白い入力欄だけが画面に残った。
晴斗は茶色い封筒を開け、資料を一枚ずつ透明のクリアファイルへ入れ直した。指紋が残らないように、と考えた自分に気づき、手を止める。まだ、逃げ道の形ばかり考えている。
ファイルを重ね、封筒の表に黒いペンで書いた。
政治倫理審査会提出用。資料入手経緯を含む。
書き終えた文字は、ひどく不格好だった。
送らないことは、逃げることではない。そう信じられるほど、晴斗は強くなかった。ただ、これ以上、誰かの恐怖を踏んで先へ進むことだけはできなかった。
午前零時になった。
送信されなかった画面は、何の音も立てずに暗くなった。晴斗は封筒を抱え、明日の朝、審査会へ出すための書類を探し始めた。




