第九十二話:閉ざされた窓
審査会の翌日、晴斗は市役所の裏階段を使った。
正面玄関から入れば、記者に囲まれる。裏口から入っても、建設部の職員と会うかもしれない。どこを通っても、誰かの視線から逃げられるわけではない。それでも晴斗は、人の少ない方を選んだ。
三階の踊り場には、窓が一つある。以前、晴斗はそこから市役所前の広場を見下ろし、誰かの相談を受けた後に気持ちを切り替えていた。今日は窓のブラインドが下りていた。外が見えないだけで、階段の空気まで狭く感じる。
議員控室の前には、辞職勧告決議を求める要望書が届いていた。署名は三百を超えている。晴斗はページをめくり、知っている名字をいくつも見つけた。駅前の果物屋。町内会の役員。演説会で最前列にいた男性。
全員が事情を知っているわけではない。
それでも、自分が説明できないことをしたのは事実だった。
要望書の最後には、短い手書きの一文があった。市民を守るために選んだ人だったのに、と。晴斗はその字を見た。怒鳴られる方が楽だった。期待されていたことを知ると、失望の重さは自分の胸へ戻ってくる。
晴斗は署名簿を閉じ、机の端へ置いた。紙の束は薄いのに、持ち上げると手首が痛むような気がした。
午後、若林から連絡が入った。会派として、木島議員の行為を容認しないと発表するという。資料の問題とは別に、職員への対応には一線を引く必要がある、と。
電話を切った後、晴斗はしばらく受話器を置けなかった。若林が神崎の側へ回ったわけではない。むしろ、晴斗が口にしてきた透明な政治を守るために、晴斗へ線を引いている。そのことが分かるから、怒ることもできなかった。
窓の外では、庁舎前の掲示板を市民が見ていた。次の定例会の日程と、審査会の開催通知が貼られている。晴斗は、その紙の前にいる人たちが、自分の名前を読んでいるような気がした。
晴斗は電話を切った後、机の引き出しを開けた。黒い手帳は、封筒に入れてある。自分が持っている限り、誰にも見せられない。出せば誰かを傷つける。出さなければ神崎が笑う。
画面を開くと、匿名投稿の下書きが残っていた。
今度は、資料の一部だけを出す。出どころを示さず、契約変更と資金の流れだけを示す。名前を伏せれば、相沢も係長も、庁舎へ入れた清掃員も守れる。そう考える一方で、名前を消した数字だけを受け取った記者は、誰の痛みを引き受けるのだろうとも思った。晴斗だけが経緯を知り、都合のいいところで説明を足せる形は、あまりに危うい。
晴斗はそう考えた。
だが、出どころを伏せることは、資料の信頼性まで奪うことになる。神崎側は偽造だと言うだろう。反論するために、晴斗はさらに多くの資料を出し、さらに多くの人を危険へさらすことになる。
晴斗は一度、送信先に全国紙の名前を入れた。名前を入れただけで、心臓が速くなる。これを押せば、神崎は防御に回る。市川も市長も、資料の処分を急ぐだろう。それでも世の中は動く。
その時、相沢の家の前に止まっていた車を思い出した。記事が出れば、また誰かの家の前に別の車が止まる。自分はそれを見ない場所にいる。
晴斗は送信先の文字を消した。
消した後の欄には、何も残らない。相沢へ連絡を取る勇気も、係長へ謝る言葉も、ここには書けなかった。送らないと決めるだけで、自分が誰かを守ったように思いそうになる。その軽い自己満足さえ、晴斗は警戒した。
夕方、窓の外で雨が降り始めた。
晴斗はブラインドを上げた。広場を横切る人々は、傘を差して足早に駅へ向かっている。自分のことを考えている人は、誰もいないように見えた。
それでも、匿名送信の画面だけは閉じられなかった。
晴斗は、送信ボタンの手前で、また指を止めた。




