第九十一話:黒い記事
午前の議会棟は、いつもより人の声が少なかった。
晴斗が控室へ向かう廊下で、二人の職員が話していた。晴斗の姿を見た途端、声が途切れる。片方の職員は資料を胸へ抱え、もう片方は窓の方へ顔を向けた。
昨日までなら、ただ忙しいのだと思ったかもしれない。
今は分かる。自分が近づくだけで、皆が何を聞かれるのかを考える。
控室の机には、地方紙の朝刊が置かれていた。誰かが置いたのか、配達されたものなのか分からない。社会面の下に、晴斗の名前がある。
葉山市議、職員へ圧力か。
記事は、係長との面談を「家族の勤務先まで把握した上での威圧」と書いていた。建設部の保管資料について、木島議員が職員へ不適切な接触をしていたという匿名証言も載っている。晴斗が知っている事実と、知らない誰かの言葉が、同じ段落の中で混じっていた。
完全な嘘ではない。
だから、否定しにくい。
記事の横には、葉山市役所の外観写真が使われていた。庁舎の前を歩く人々は、晴斗が資料を追ってきた場所ではなく、職員を脅す議員が働く場所として紙面に映る。晴斗は、相沢や係長がこの記事を読んだ時、自分の名を見て何を思うのかを考えた。自分の行為が原因で、彼らまで周囲から見られるようになる。
神崎側が晴斗を潰すために書かせた記事だとしても、晴斗が相手を怖がらせたことまで消えない。その事実が、紙面の黒い文字より重かった。
晴斗は記事を折りたたんだ。神崎側は、晴斗が手帳を持ち出したことまで知っている。誰が漏らしたのかを考え始めれば、清掃員も、資料室の職員も、匿名メールの送り主も、皆が疑わしくなる。
それが相手の狙いなのだろう。
昼過ぎ、政治倫理審査会から呼び出しがあった。廊下には記者が待っている。晴斗は足を止めずに通り過ぎたが、背中へ質問が飛んだ。
「手帳を持ち出したのは事実ですか」
「職員を脅したという証言がありますが」
晴斗は答えなかった。ここで言えば、誰かを守るためにやったと説明したくなる。しかし、その言葉は、相手の恐怖をもう一度自分の正しさへ使うことになる。
審査会の部屋には、見慣れない録音機が置かれていた。議長補佐は、事実確認のためだと説明した。晴斗は席に座り、テーブルの上の赤いランプを見た。
係長の件。相沢の件。建設部への夜間侵入。問いは順番に並べられている。
晴斗は、手帳の中身については答えなかった。資料の出どころを守るためではない。自分が守ると言っても、誰をどこまで守れるのか分からなくなっていたからだ。
録音機の赤いランプを見ていると、係長があの夜、庁舎の裏口で見せた顔が浮かんだ。晴斗は資料を持っていた。相手は家族を守りたかった。その二つの事実だけで、晴斗は相手より高い場所に立っていた。
「職員の家族に関する情報を、面談で利用しましたか」
晴斗は、すぐに答えなかった。
窓の外では、庁舎前の木が風に揺れている。晴斗は昨夜、係長の娘の鞄を想像した自分を思い出した。想像した上で、係長を呼び出した。
「利用するつもりはありませんでした」
晴斗は言った。
「でも、相手にはそう見えたと思います」
審査会を出ると、携帯には市民からのメールが届いていた。辞めろという一文。信じていたのにという一文。説明してほしいという一文。廊下の掲示板の前では、職員が晴斗を見てから視線をそらした。誰も怒鳴らない。その沈黙の方が、審査会で聞いた質問より深く胸へ残った。
晴斗はどれにも返せなかった。
夕方、事務所の郵便受けを開けると、青い名刺が一枚入っていた。演説会で晴斗が配ったものだ。真ん中から二つに裂かれ、白い封筒へ戻されている。
晴斗は名刺を机の上へ置いた。
神崎を追い詰める資料は、引き出しの中にある。
けれど、街の中で先に追い詰められているのは、自分だった。




