第九十話:深淵の底
朝、晴斗は事務所のソファで目を覚ました。
床には、昨夜広げた手帳のコピーが散らばっている。黒い表紙の手帳は、机の引き出しへ入れた。誰かに見つかるのが怖かった。けれど、引き出しを閉めた後も、そこにある重みだけは部屋に残っている。
窓から入る光は弱かった。
晴斗は靴も脱がずに眠ったらしい。肩が固まり、口の中が乾いている。流しで水を飲み、顔を上げると、壁の青い旗が目に入った。昨夜拾ったまま、机の脇へ立てかけてある。
掲げ直す気にはなれなかった。
携帯が震えた。
議会事務局からの連絡だった。午前中に来られるか。政治倫理審査会の件で、追加の確認があるという。晴斗は短く返事をした。
庁舎へ着くと、玄関前に報道車両が二台止まっていた。カメラを持った記者が、晴斗の姿を見て近づいてくる。
「木島議員、職員へ資料提供を迫ったという件について、説明は」
別の記者が、携帯の画面を見ながら続けた。
「昨夜、建設部の保管室へ入ったという情報があります。事実ですか」
晴斗の足が止まった。
清掃員が誰かへ話したとは思わなかった。けれど、庁舎の中へ入ったことは、どこかの記録に残る。神崎側が知っていても不思議ではない。
「取材には、後で文書で答えます」
それだけ言って、晴斗は庁舎へ入った。
廊下の向こうから、建設部の職員たちが来た。晴斗を見つけると、会話が止まる。昨日、資料室で会った職員もいる。相手は視線を上げず、書類を抱え直して通り過ぎた。
晴斗は呼び止めなかった。
自分が昨夜したことは、誰かを守るためだったのか。手帳を消されないためだったのか。それとも、神崎を倒せる材料を、自分だけの手で確保したかったのか。
どれも嘘ではない。
だから、一つの正しさへ逃げることもできなかった。
政治倫理審査会の小会議室には、議長補佐と二人の職員がいた。質問は淡々としていた。係長の自宅周辺について調べたか。家族の勤務先を知っていたか。資料の提供を求めた際、どんな言葉を使ったか。
晴斗は、一つずつ答えた。
知っていた。資料を見た。家族に触れたつもりはない。だが、触れなくても、知っていること自体が相手を怖がらせた。
その事実を、晴斗は否定できなかった。
議長補佐は、晴斗の答えを書き留めた後、しばらく顔を上げなかった。部屋の時計だけが進んでいる。晴斗は、相手が責めているわけではないことに気づいた。誰も大声を出さず、ただ記録に残している。その静けさの方が、神崎の脅しよりも逃げ場がなかった。
政治家は、言葉で人を動かす。晴斗はそう思ってきた。だが、言葉にしなくても、知っている情報を机の上へ置くだけで、人は動かされる。自分はその力を使った。使わないふりをして、使った。
会議室を出ると、携帯に結衣からのメールが届いていた。
ニュースを見ました。建設部へ行ったのですか。
短い文面だった。
晴斗は返事を書きかけた。資料が消される前だった。誰かが中から知らせてくれた。神崎のためではない。街のためだった。
そう書けば、自分の行為を正しく見せられる。
晴斗は文字を消した。
結衣は、理由を聞いているのではない。晴斗がまた一人で決めたのかと、確認している。
返事を送れないまま、画面が暗くなった。
昼過ぎ、神崎の事務所から声明が出た。木島議員による行政職員への威圧的な接触と、不正な情報収集について、関係機関へ相談しているという。自分たちは根拠のない中傷に毅然と対応する、と。
晴斗は事務所へ戻り、引き出しを開けた。
黒い手帳はそこにある。
県と市と業者をつなぐ記録も、音声も、数字もある。神崎を追い詰めるだけのものを手に入れた。それなのに、晴斗の周りには誰もいない。
健太からも、美咲からも連絡はない。若林は、議会で晴斗と距離を置くと言った。結衣のメールには、まだ返せない。
晴斗は手帳を机の上へ置いた。
これを出せば、神崎は終わるかもしれない。
だが、手帳を手に入れた夜の自分まで消えるわけではない。
青い旗は、壁ではなく床際にある。
晴斗は椅子へ座り、開いた手帳を見たまま動けなかった。
深淵の底には、勝利の形をした資料だけが残っていた。




