第九十六話:ほどける糸
若林が指定した店は、商店街の裏通りにあった。
店先のガラスには、古い文字で「珈琲 ひばり」と書かれている。昼の混雑を過ぎた時間で、店内には常連らしい老人が二人いるだけだった。カウンターの奥では、店主が布でコーヒーミルを拭いている。晴斗が入ると、焙煎豆の苦い匂いが上着へまとわりついた。
若林は奥の丸卓に座っていた。
いつも持ち歩いている分厚い手帳ではなく、角の擦れた青い冊子を机に置いている。表紙には「市議会先例集」とあった。コーヒーは運ばれているのに、口をつけた形跡がない。
晴斗は向かいの椅子を引いた。脚が床を擦る音に、隣の老人が一度だけこちらを見た。
「結衣さんから聞いた」
若林は冊子の頁を押さえたまま、晴斗の反応を待った。店内の静けさが、次の言葉を急かさない。
「匿名で出すのはやめたそうだな」
晴斗は砂糖の入った小瓶を指先で回した。中身はほとんど減っていない。自分だけが急いでいるような気がして、瓶を元へ戻した。
「やめました。審査会には、入手の経緯も含めて出しました」
若林は短くうなずいた。しかし、その顔から硬さは消えなかった。
「それで済むとは思うな」
店主が晴斗の前へカップを置いた。湯気が細く立ち、視界の端をぼかす。晴斗は熱い縁に触れそうになり、手を引いた。
「分かっています」
晴斗が答えると、若林の指がカップの取っ手から離れた。その短い沈黙の後に、次の言葉が落ちた。
「職員を追い詰めた。家族のことまで考えさせた。君がどれだけ神崎を憎んでいても、その事実は残る」
若林の声は低い。怒鳴らないからこそ、逃げ場がなかった。晴斗はカップを見た。黒い液面に、自分の顔が歪んで映っている。
「僕は、止まったら負けると思っていました」
若林はすぐに否定しなかった。カップから上がる湯気の向こうで、晴斗をまっすぐ見た。
「誰にだ」
若林の問いに、晴斗はすぐ答えられなかった。神崎に。市川に。自分を笑った人間に。答えを並べても、どれも本当で、どれも違う。
「自分に、だと思います」
言い終えると、若林はようやくカップへ手を伸ばした。一口飲んでから、青い冊子を晴斗の方へ押した。
「なら、その勝ち方を変えろ」
冊子は古く、何人もの議員がめくった跡がある。付箋のついた頁には、文書提出請求、調査権、一般質問、監査請求の項目が並んでいた。晴斗は文字を追いながら、喉の奥が渇いていくのを感じた。
「そんな手続きでは遅いです」
晴斗の焦りを否定せず、若林は一度だけ頷いた。
「遅い」
若林は即座に認めた。
「相手に準備する時間も与える。資料の提出を拒まれることもある。賛同者を集めるために、頭を下げて回ることにもなる」
店の入口で風鈴が鳴った。新しい客が入ってきたが、若林はそちらを見なかった。
「だが、議事録に残る。誰が何を拒み、誰が何に賛成したか、後からでも市民が確かめられる。誰か一人の腹の中だけで決まらない」
晴斗は、あの夜の送信画面を思い出した。急げば、神崎の足を止められると思った。だが、発信者を隠した情報は、晴斗以外の誰も検証できない。真実だと信じろと言うだけで、神崎と何が違うのか。
「僕が質問に立てば、自己弁護だと思われます」
若林は否定しなかった。カップの受け皿に、指先がそっと触れる。
「思われるだろうな」
若林は冊子の端を揃えた。
「だから先に、審査会で事実を話したんだろう。自分のしたことを隠さず、その上で市の仕事を問う。全部を君一人の戦いにするな」
晴斗は青い冊子を閉じた。紙の表紙は柔らかく、長く使われたものだけが持つ温度があった。
「協力してくれる人は、いるでしょうか」
その言葉を口にすることが、ひどく恥ずかしかった。これまでの晴斗は、協力者を探す時でさえ、相手に何をさせられるかを先に考えていた。断られるかもしれないと認めて尋ねるのは、初めてだった。
若林は窓の外の商店街を見た。八百屋が木箱を片づけ、配達の自転車が細い道を抜けていく。
「いるかどうかは、君が会って確かめろ」
若林は言った。
「ただし、資料を見せるなら、都合のいい部分だけ渡すな。自分に不利な経緯も話せ。相手が断る権利まで奪うな」
晴斗は黙ってうなずいた。自分の手から、少しずつ糸がほどけていく。握っていた時は、切れれば終わると思っていた。
だが、ほどけた糸の先には、まだ誰かの手が届く場所が残っているのかもしれなかった。




