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【4作目・執筆中】青嵐の旗を掲げて ~地方議会・立志激闘篇~  作者: 立花大二
第一部:立志篇

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第九話:千回の握手


舞台の上は想像していたよりもずっと広くそして明るかった。

客席から見上げていた時は気づかなかったが無数の照明が埃の舞う空間を容赦なく照らし出している。まるでこれから尋問でも受けるかのような気分だった。


佐伯は舞台の中央で腕を組んで立っている。その姿はたった一人しかいないはずなのにまるで百人の聴衆がいるかのような圧倒的な威圧感を放っていた。


「始めろ」

佐伯が短く命じた。

晴斗はごくりと喉を鳴らし一歩前に進み出た。テレビで見た政治家たちの演説を思い出しぎこちなく右手を差し出す。


「は、はじめまして! わたくし木島晴斗と申します! このたび葉山市の未来のために立ち上がる決意をいたしました! どうかご支援のほどよろしくお……」

「やり直しだ」

晴斗の言葉を佐伯は冷たく遮った。彼は差し出された晴斗の手を握ろうともしない。

「声が小さい。腹から声を出せ。それじゃ誰の耳にも届かん」

「は、はい!」

晴斗は一度深呼吸をすると今度は意識して大きな声を出した。

「わたくし木島晴斗と申します!」

「目が泳いでる。相手の目を見ろ。自信のなさそうな奴に誰が街の未来を託そうと思うか」

「……っ!」


佐伯の指摘は的確でそして容赦がなかった。

「姿勢が悪い。猫背になるな。胸を張れ」

「手の出し方がなってない。物乞いみたいに下から恐る恐る出すな。堂々と相手の胸の高さに差し出せ」

「笑顔がない。そんな仏頂面で握手を求められても気味が悪いだけだ」


何度も何度もやり直しを命じられた。

ただ名乗って握手をするだけ。その単純な動作がこれほど難しいものだとは思わなかった。意識すればするほど体はぎこちなくなり声は上ずる。額からは冷や汗が噴き出してきた。


「もう一度!」

「まだダメだ!」

「そんなことでは選挙カーから犬に吠えられるのが関の山だぞ!」


佐伯の罵声ががらんどうのホールに響き渡る。

三十回、四十回と繰り返すうちに晴斗の膝は笑い始め喉はカラカラに乾ききっていた。

心が折れそうになる。

たった一人の人間にすら自分の想いを伝えられない。こんなことで本当に千六百人もの心を動かすことなどできるのだろうか。


「……ラストだ。次でダメなら今日は終わりだ。お前には才能がない」

佐伯が最後通告のように言った。

晴斗は奥歯を食いしばった。ここで終わるわけにはいかない。


彼は一度目を閉じた。

脳裏に浮かべたのは佐伯の顔ではない。

不安そうに自分を見つめていた結衣の顔。

市役所の窓口で助けを求めていた住民たちの顔。

そして議場でふんぞり返っていた議員たちの顔。


腹の底から何かがこみ上げてくる。

それは恐怖でも気負いでもない。純粋な怒りにも似た強い感情だった。


晴斗はカッと目を見開いた。

そして今までで一番大きく深く息を吸い込んだ。


「木島晴斗です!!」


声がホール全体を震わせた。

それはもはや演説の練習ではなかった。魂の叫びだった。

晴斗はまっすぐに佐伯の目を見据え力強く右手を差し出した。その手はもう震えていなかった。

「この葉山市を必ず変えてみせます! あなたの一票を俺にください!!」


佐伯は何も言わなかった。

ただじっと晴斗の目を見つめている。

永遠のようにも感じられる沈黙の後、彼はゆっくりと自分の右手を上げた。


そして差し出された晴斗の手を強く握り返した。

ごつごつとした分厚い労働者の手だった。


「……まあ及第点だ」

佐伯は短くそう言うとぱっと手を離した。

「今のを忘れるな。それがお前の原点だ」


晴斗はぜえぜえと肩で息をしながら自分の右手を見つめた。佐伯に握られた部分がまだじんじんと熱い。たった一度の握手。しかしその一度にたどり着くために自分は何かとても大切な壁を乗り越えたような気がした。


「さて今日の稽古はここまでだ。だが試練はまだ終わらん」

佐伯は舞台袖に歩いていくとカウンターを取り出した。カチ、カチと数字を記録するあの小さな機械だ。それを晴斗に放り投げる。


「これをやる。明日から毎日街に出て百人と握手をしろ。誰でもいい。店の店員でも道を聞いてきた観光客でもいい。とにかく百人の他人と握手をするんだ。そして自分の名前を名乗れ」

「ひゃ、百人……ですか?」

「そうだ。できないとは言わんだろうな?」

佐伯の目が面白そうに細められる。


「今日のこのホールでの握手は一回とカウントしてやる。だから今日のノルマはあと九十九回だ。達成するまで帰ってくるな」

「ええっ!?」

「何だ不満か? ならば千回だ。一日千回。それができれば俺が見てきた中でも最高の『どぶ板』政治家になれるだろうよ」


千回の握手。

その言葉はもはや冗談とは思えなかった。佐伯の目は一切の笑みがなく本気で言っているように見えた。晴斗の喉がごくりと鳴る。一瞬でも怯んだ自分への罰。あまりにも過酷な要求に血の気が引いていく。だがここで「無理だ」と言えばこの男との関係は終わる。それだけはわかった。


晴斗は震えそうになる膝に力を込めた。手の中のカウンターを砕けんばかりに握りしめる。

「……わかりました。やります」

覚悟を決めて晴斗は決意を込めて頷いた。


その瞬間、佐伯の射抜くような視線がふっと和らいだ。

「……ふん。威勢だけはいい」

佐伯は満足げに、あるいは面白そうにわずかに口の端を上げた。

「いいか坊主。本当に一日千回やれなんて言わん。そんなことをすればお前は三日で潰れる。だがな本気で選挙を戦う奴はそれくらいの覚悟で毎日を生きているということだ。それをその腹の底に刻みつけておけ」


彼は舞台を降りホールの出口へと向かっていく。

「今日のノルマは最初のままだ。百回。ただし半端な気持ちでやるなよ。一回一回が千回分くらいの重みがあると思え」


「……はい!」

晴斗はカッと熱くなった顔で力強く返事をした。


「ああそうだ坊主」

去り際に佐伯は一度だけ振り返った。

「その百回の握手が終わる頃にはお前の顔つきも少しはマシになっているだろうよ」


そう言い残し佐伯はホールから出て行った。

広い空間に再び晴斗一人が取り残される。

しかし彼の心はここに来た時のような孤独感には苛まれていなかった。

手の中にあるカウンターの冷たい感触。

そして右手に残る確かな熱。


それが彼の新しい武器だった。

晴斗はホールの出口に向かって力強く歩き出した。

街へ。百回の握手という無謀な戦いの舞台へ。

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