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【4作目・執筆中】青嵐の旗を掲げて ~地方議会・立志激闘篇~  作者: 立花大二
第一部:立志篇

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第八話:現実という名の算数


翌朝、晴斗は迷いの末に指定された場所へと向かっていた。

葉山市民文化会館。成人式や市の講演会で使われる古びた公共施設だ。佐伯という男の真意はわからない。もしかしたらからかわれているだけかもしれない。だが他に頼るあてのない晴斗にはこの胡散臭い誘いを信じる以外の選択肢がなかった。


午前九時、少し前に会館のロビーに着くと佐伯はすでに壁に寄りかかって立っていた。昨日と同じ着古したシャツ姿だ。

「……五分前行動か。まあ悪くない」

佐伯は腕時計を一瞥すると顎で奥のホールを示した。

「ついてこい」


連れていかれたのは会館の大ホールだった。客席には赤いビロードの椅子がずらりと並び静まり返っている。平日の午前中、利用者は誰もいない。

「座れ」

佐伯に促されるまま晴斗は客席の真ん中あたりに腰を下ろした。佐伯は舞台の上にひょいと上がるとまるで講演でも始めるかのように晴斗と向かい合った。


「さて坊主。昨日は『選挙に出る』と威勢のいいことを言っていたな」

「……はい」

「じゃあ聞くが。葉山市の有権者数は何人だ?」

唐突な質問に晴斗は言葉に詰まった。

「ええと……市の人口が二十五万人くらいですから……」

「話にならん」

佐伯は吐き捨てるように言った。

「約二十万人だ。そんな基本情報も知らずに戦えると思っているのか」

ぐうの音も出なかった。市役所に勤めていながらそんな数字すら意識していなかった自分が恥ずかしかった。


「いいか。政治は理想や情熱じゃない。算数だ」

佐伯は舞台の上をゆっくりと歩きながら講義を始めた。

「葉山市議会の議員定数は二十八。前回の市議選の投票率は約五十パーセント。つまり票を投じたのは有権者二十万人のうち約十万人だ」

彼は指を一本立てる。

「そして前回の選挙の最下位当選者の得票数はいくつだか知ってるか?」

「……いえ」

「千五百八十四票だ。四捨五入して約千六百票」

佐伯は舞台の縁に腰を下ろし真っ直ぐに晴斗を見た。

「つまりだ。坊主、お前がやるべきことはたった一つ。四ヶ月後の投票日にお前の名前を書いてくれる人間を千六百人見つけてくることだ。それ以上でもそれ以下でもない。それがお前が最初にクリアすべき算数の問題だ」


千六百人。

その具体的な数字を突きつけられ晴斗は愕然とした。途方もない数に思えた。自分の知り合いを全員かき集めたって五十人もいないだろう。


「今の段階でお前に投票すると約束してくれる人間は何人いる?」

「……幼なじみが一人」

「はっ、一人か。あと千五百九十九人だな。大変な作業だ」

佐伯の言葉には棘があった。だがそれは紛れもない事実だった。


「いいか。選挙で一番大事なものは三つある。地盤、看板、鞄だ」

「じばん、かんばん、かばん……?」

「地盤は後援会や同窓会みたいな、お前を支える組織力。看板は知名度。そして鞄は金だ。お前にはそのどれか一つでもあるか?」

晴斗は力なく首を振った。

「……何もないな。ゼロからのスタートだ。いやマイナスからか」

佐伯はため息をついた。

「だがそんなお前にも一つだけ武器がある。何だかわかるか?」

「……若さですか?」

「違う。そんなものは経験のなさの裏返しでしかない。お前の唯一の武器は時間だ」

佐伯は立ち上がると舞台袖から一本の使い古された演説用のマイクスタンドを引っぱり出してきた。そしてそれを晴斗の目の前にドンと突き立てた。


「組織も知名度も金もない奴が千六百票を集める方法は一つしかない」

佐伯の声が誰もいないホールに響き渡る。

「どぶ板だ。自分の足で歩いて一人でも多くの有権者に会って頭を下げて名前と顔を覚えてもらう。有権者がいる場所ならどこへでも行く。駅前、スーパーの前、商店街の角。来る日も来る日もそこに立ち続ける。雨の日も風の日も誰に無視されようともな」


「……」

「その覚悟はあるか?」

佐伯の鋭い目が晴斗の心の奥底を射抜くようだった。

できるだろうか自分に。

見ず知らずの人に声をかけ頭を下げ続ける。冷たい視線に耐え時に罵声を浴びせられながらひたすら立ち続ける。それは晴斗が今まで経験したことのない過酷な精神の消耗戦になるだろう。


だが。

ここで「できません」と言えばすべてが終わる。

結衣の店も自分の決意もすべてがただの青臭い戯言になってしまう。


晴斗はゆっくりと立ち上がった。そして舞台上の佐伯をまっすぐに見据えた。

「……あります」

声は震えていた。だがその瞳には確かな光が宿っていた。


「よかろう」

佐伯は短くそう言うと満足げに、あるいは面白そうにわずかに口の端を上げた。

「ならば最初の試練だ。今からこのホールにいる客――つまり俺だ――と握手をしろ。そしてお前の名前を名乗り支持を訴えろ。それができたら次のステップを教えてやる」


たった一人の観客。

晴斗はごくりと唾を飲み込むと覚悟を決め舞台へと続く階段を一歩踏み出した。

彼の本当の意味での戦いが今このがらんどうのホールから始まろうとしていた。

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