第七話:場末のバーと冷たい現実
その日、晴斗は昼間から街をさまよっていた。
ハローワークで紹介された日雇いバイトの面接にあっさりと落ちた帰りだった。面接官の「選挙が終わるまでのつなぎの仕事を探してるってことですよね?」という見透かしたような一言がまだ耳の奥で反響している。
空腹だったが財布の中身を考えるとコンビニのおにぎり一つ買うのもためらわれた。預金残高は日に日に減っていく。焦りだけが胃の腑を焼くようにこみ上げてくる。
(もう無理なのかもしれない……)
弱音が心の隙間から黒い煙のように立ち上った。市役所を辞めた時のあの燃えるような決意は社会の冷たい現実の前にあっという間に色褪せようとしていた。
夕暮れ時、晴斗は葉山市の古い歓楽街に迷い込んでいた。駅前の再開発地域とは対照的に昭和の時代から時が止まったような古びたスナックや居酒屋が軒を連ねる一角だ。けばけばしいネオンがぽつりぽつりと灯り始める。
その一角にひっそりと佇むバーがあった。
『BAR SAEKI』
古びた木の扉に真鍮のプレートが打ち付けられているだけの素っ気ない店構え。なぜかその店に吸い寄せられるように晴斗は足を止めた。そしてほとんど無意識のうちにその重い扉を押し開けていた。
店内は薄暗く紫煙が漂っていた。客は誰もいない。
長いカウンターの向こうで一人の男が黙々とグラスを磨いていた。年齢は五十代後半だろうか。白髪混じりの髪を無造作に伸ばし着古したシャツの袖をまくり上げている。その目だけが暗い店内でもわかるほど鋭く光っていた。
「……いらっしゃい」
男は晴斗を一瞥すると低い声で言った。
「あの……何か一番安いのを」
晴斗がかろうじて絞り出した声はひどく情けなく響いた。
男は何も言わずに頷くと手際よくウイスキーの水割りを作って晴斗の前に置いた。琥珀色の液体の中で角氷がカランと澄んだ音を立てる。
一口飲む。
慣れないアルコールの味が喉を焼いた。しかしその熱が凍りついた心をわずかに溶かしてくれるような気もした。
「ずいぶんひどい顔だな坊主」
不意に男が口を開いた。
「……え?」
「希望も未来もないって顔に書いてある。何かでかいヘマでもやらかしたか」
男の言葉は何の遠慮もなかった。だが不思議と不快ではなかった。むしろハローワークの職員や大家の上辺だけの丁寧な言葉よりもずっと心に届いた。
何かがぷつりと切れた。
晴斗は堰を切ったように自分の身の上を語り始めていた。市役所を辞めたこと。結衣の店のこと。そして無謀にも市議会議員選挙に出ようとしていること。誰にも本気で聞いてもらえなかった言葉がアルコールに押されるように次々と口から溢れ出ていく。
男は黙って聞いていた。相槌も打たずただ磨き上げたグラスを棚に並べている。
一通り話し終えた晴斗ははっと我に返り急に恥ずかしくなった。
「すみません初対面なのに変な話をして……」
「……ふん」
男は鼻で笑った。
「理想と正義感だけで世の中が変えられると思ってるのか。おめでたいにも程があるな」
その言葉は氷のように冷たかった。
「政治ってのはな坊主。もっと汚くて面倒で……残酷なもんだ」
「……あなたに何がわかるんですか」
思わず反発の言葉が口をついた。
すると男は初めてグラスを磨く手を止めまっすぐに晴斗を見た。その鋭い視線に射竦められる。
「わかるさ。俺は二十年以上その『泥水』の中で生きてきたんだからな」
男――佐伯と名乗った――はかつて国会議員の秘書をしていたのだという。それもただの秘書ではない。「汚れ仕事」専門のいわゆる裏方の人間だったと自嘲気味に語った。
「あんたがやろうとしてることは竹槍で戦車に挑むようなもんだ。いやそれ以下だ。竹槍の作り方すら知らないんだからな」
「……」
晴斗は何も言い返せなかった。まさにその通りだったからだ。
「まあ面白い。久しぶりにあんたみたいな『本物のバカ』を見た」
佐伯はそう言うとカウンターの下から一枚のメモ用紙とペンを取り出した。
「明日この場所に来い。九時、時間厳守だ」
メモに書かれていたのは葉山市の市民文化会館の住所だった。
「これは……?」
「あんたがどれだけ『わかってない』か教えてやる。現実ってやつをな」
佐伯はそれだけ言うとまたグラスを磨き始めた。もうこちらには興味がないという態度だった。
晴斗はわけがわからないまま代金をカウンターに置くと店を出た。
外の空気はすっかり冷え込んでいる。
あの男は一体何者なのだろう。
胡散臭い。だが彼の言葉には晴斗が今まで出会った誰とも違う圧倒的なリアリティがあった。
明日行くべきか行かざるべきか。
晴斗は冷たい夜風に吹かれながら手の中のメモを強く握りしめた。
この出会いが自分の運命を大きく変えることになるなどこの時の彼にはまだ知る由もなかった。




