第八十八話:毒の行き先
翌日、晴斗は相沢の家へ行かなかった。
行けば、何かできる気がしてしまう。家の前に止まる車を見に行き、近所を歩き、神崎側の人間を探す。それは相沢を守るためではなく、自分がまだ役に立つと思いたいだけかもしれない。
代わりに晴斗は、弁護士会の無料相談窓口へ電話をかけた。
通報者の保護を扱った経験のある弁護士を紹介してほしいと、名前を伏せて尋ねた。電話口の事務員は、事情を聞かずに予約の取り方だけを説明した。誰かを守る方法が、自分の手元の情報だけではないと知ることが、晴斗には屈辱に近かった。
午後、紹介された弁護士と会った。
事務所は古い雑居ビルの四階にあった。廊下には、法律相談、交通事故、相続と書かれた札が並ぶ。晴斗は待合室の硬い椅子へ座り、鞄を足元へ置いた。ここで資料を見せれば、相沢たちの名前まで渡すことになる。見せなければ、何を相談しに来たのか分からない。
呼ばれて入った部屋には、五十代くらいの女性弁護士がいた。
晴斗は、USBの中身を説明した。名前は伏せ、資料の経路も曖昧にした。それでも、通報者が家族ごと脅かされていること、自分が匿名で資料を出そうとしていることは隠さなかった。
弁護士は最後まで遮らずに聞いた。
「匿名で出せば、守れると思うのですね」
晴斗は頷いた。
弁護士は机の上のペンを置いた。
「出した資料が本物でも、出し方が悪ければ、通報者は守れません」
晴斗は黙った。
「相手は出どころを探します。行政内部なら、関係者を全員疑うでしょう。あなたが資料の全体像を持っているなら、まずは保全と検証を分けるべきです」
その言葉は正しかった。正しいからこそ、晴斗は苛立った。
「時間がかかります」
弁護士は晴斗を見た。
「かかります。だから、急ぐ人は皆、誰かを置いていく」
晴斗は、机の上に置いた鞄を見た。中には、今すぐ世へ出せば相手を揺らせる資料が入っている。弁護士の言う通りにすれば、保全の申立てや、通報者の同意確認、資料の真偽の照合から始めることになる。その間に神崎は手を打つだろう。証拠を消し、関係者を黙らせ、また何事もなかったように議会へ現れるかもしれない。
それが怖かった。誰かを置いていくことより、神崎を逃すことの方が怖い。その恐怖が、自分をここまで走らせてきた。
係長。相沢。建設部の職員。健太と美咲。名前が、順に浮かんだ。
晴斗は相談室を出た後、階段を下りずに踊り場へ立った。窓の外には、隣のビルの壁しか見えない。狭い空に、電線が何本も重なっていた。
携帯が震えた。
知らない番号から、写真が届いている。
写っていたのは、建設部のキャビネットだった。引き出しが開き、黒い手帳が半分だけ覗いている。続けて、短い文が送られてきた。
今夜、処分される。
晴斗は画面を見つめた。
写真の隅には、蛍光灯の反射が写り込んでいる。撮影した人間は、庁舎の中にいる。誰かが今、この瞬間にも、晴斗の返事を待っているのかもしれない。助けを求めるために送ったのか、それとも晴斗を誘い出すためなのか。
誰が送ったのか、もう考える余裕がなかった。処分されれば、手帳は消える。市川と神崎をつなぐ会議の記録も、係長が渡したUSBの裏づけも失われる。晴斗は、情報を失う怖さより、失った後に自分が何をするかを恐れた。もう一度誰かを追い詰めても、取り戻せると信じてしまいそうだった。
弁護士の言葉が耳に残っている。
急ぐ人は皆、誰かを置いていく。
それでも、晴斗は建設部の人事表を開いた。夜勤の宿直者、保管庫の鍵を持つ担当、庁舎の巡回時刻。必要な情報が、画面へ並んでいく。
毒は、神崎へ向けて投げるものだと思っていた。
だが本当は、急げば急ぐほど、晴斗自身の中へ回っていた。
夜の庁舎へ向かう車の中で、晴斗は何度もハンドルを握り直した。




