第八十七話:止まる指
交流センターを出た時には、駅前の時計が八時を回っていた。
晴斗は鞄を肩へ掛けたまま、すぐには帰らなかった。中には資料の束と、USBと、途中まで入力した匿名送信の下書きが入ったパソコンがある。持ち歩いているだけで、身体の片側だけが重い。
駅の改札前には、帰宅する人たちが途切れず流れていた。学生は友人と話しながら改札を抜け、仕事帰りの男は片手でスマートフォンを見ている。誰も晴斗の鞄の中を知らない。知らないまま、明日の生活へ帰っていく。
晴斗は駅前のベンチへ座り、パソコンを開いた。
画面には、送信先の欄が残っている。ファイルも添付済みだった。あとは送るだけでいい。
神崎が困る。
市川も困る。
それだけを考えれば、指は簡単に動くはずだった。
晴斗は、送信ボタンの上へカーソルを置いた。
その時、通話の着信が入った。
相沢からだった。
晴斗は一瞬、画面を見たまま動けなかった。相沢は、係長の資料が出てから一度も連絡をしてこなかった。出れば、また何かを求められると考えるだろう。晴斗自身が、そう思わせてきた。
それでも、晴斗は通話を取った。
「もしもし」
電話の向こうには、すぐに声がなかった。駅の発車ベルが遠くで鳴る。晴斗は、相手が切るまで待とうと思った。
「木島さん」
相沢の声は、以前より小さかった。
「さっき、知らない人が家の前にいました」
晴斗の背筋が伸びた。
「何か言われましたか」
「何も。車から降りずに、ずっと見ていただけです」
相沢の声の向こうで、子どもが何かを尋ねる気配がした。相沢は小さく待って、と答えた後、部屋から離れたらしい。戸が閉まる音がした。
「保育園へ迎えに行く時も、後ろを見てしまうんです。夫は会社を休んでいます。私が誰かに話したことまで、家の中で言えなくなりました」
晴斗はベンチの端を握った。相沢が資料を渡した時、自分は彼女の勇気を神崎を倒すための力として見た。けれど相沢にとっては、勇気の後にも、毎日の買い物や子どもの迎えが続いている。
相沢は少し息を継いだ。後ろで、テレビの音が聞こえる。誰かが家にいる時は平気なふりをしているのかもしれない。
「資料、出すんですか」
晴斗は答えられなかった。
相沢は、晴斗が持っているものを知っている。完全な中身までは知らないだろう。それでも、神崎側が動き始めていることを、相手は自分の家の前の車で知っている。
晴斗の中には、車を見たなら今こそ出すべきだという考えもあった。相手が脅していることまで含めて世に出せば、神崎側は動きにくくなる。だが、その「今こそ」という言葉を、晴斗は何度も自分のために使ってきた。
「まだ、決めていません」
ようやく言うと、相沢の息が止まったように聞こえた。
「決める前に、私たちのことを思い出してください」
責める声ではなかった。
だから、晴斗には余計に痛かった。
「私、あの時、話してよかったと思っています。でも、夫も子どもも、ずっと怖がっています。誰かが正しいことをするたびに、私たちがまた隠れなきゃいけないなら……」
言葉は最後まで続かなかった。
晴斗は、送信画面を見た。
画面の中では、資料はただのファイル名になっている。係長の手帳も、相沢の声も、建設部の職員の恐怖も、圧縮ファイルの中では同じ重さだった。
「分かりました」
晴斗は言った。
「出す前に、考えます」
電話が切れた後、晴斗はすぐにパソコンを閉じなかった。送信ボタンの下に、資料の容量が表示されている。三十六メガバイト。人の生活を揺らすものが、画面の隅ではそれだけの数字に見える。
晴斗は下書きから添付を外した。
画面が軽くなる。
けれど、胸の中は軽くならなかった。
資料を出さなければ、神崎は動き続ける。出せば、相沢たちはまた怯える。どちらを選んでも、晴斗は誰かを守れない。
ホームから電車が出ていく。窓の明かりが、暗い線路をゆっくり流れた。
晴斗はパソコンを閉じ、鞄へしまった。
送らなかった指先だけが、冷たくなっていた。




