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【4作目・執筆中】青嵐の旗を掲げて ~地方議会・立志激闘篇~  作者: 立花大二
第六部:闇の取引と深淵篇

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第八十七話:止まる指

 交流センターを出た時には、駅前の時計が八時を回っていた。


 晴斗は鞄を肩へ掛けたまま、すぐには帰らなかった。中には資料の束と、USBと、途中まで入力した匿名送信の下書きが入ったパソコンがある。持ち歩いているだけで、身体の片側だけが重い。


 駅の改札前には、帰宅する人たちが途切れず流れていた。学生は友人と話しながら改札を抜け、仕事帰りの男は片手でスマートフォンを見ている。誰も晴斗の鞄の中を知らない。知らないまま、明日の生活へ帰っていく。


 晴斗は駅前のベンチへ座り、パソコンを開いた。


 画面には、送信先の欄が残っている。ファイルも添付済みだった。あとは送るだけでいい。


 神崎が困る。


 市川も困る。


 それだけを考えれば、指は簡単に動くはずだった。


 晴斗は、送信ボタンの上へカーソルを置いた。


 その時、通話の着信が入った。


 相沢からだった。


 晴斗は一瞬、画面を見たまま動けなかった。相沢は、係長の資料が出てから一度も連絡をしてこなかった。出れば、また何かを求められると考えるだろう。晴斗自身が、そう思わせてきた。


 それでも、晴斗は通話を取った。


 「もしもし」


 電話の向こうには、すぐに声がなかった。駅の発車ベルが遠くで鳴る。晴斗は、相手が切るまで待とうと思った。


 「木島さん」


 相沢の声は、以前より小さかった。


 「さっき、知らない人が家の前にいました」


 晴斗の背筋が伸びた。


 「何か言われましたか」


 「何も。車から降りずに、ずっと見ていただけです」


 相沢の声の向こうで、子どもが何かを尋ねる気配がした。相沢は小さく待って、と答えた後、部屋から離れたらしい。戸が閉まる音がした。


 「保育園へ迎えに行く時も、後ろを見てしまうんです。夫は会社を休んでいます。私が誰かに話したことまで、家の中で言えなくなりました」


 晴斗はベンチの端を握った。相沢が資料を渡した時、自分は彼女の勇気を神崎を倒すための力として見た。けれど相沢にとっては、勇気の後にも、毎日の買い物や子どもの迎えが続いている。


 相沢は少し息を継いだ。後ろで、テレビの音が聞こえる。誰かが家にいる時は平気なふりをしているのかもしれない。


 「資料、出すんですか」


 晴斗は答えられなかった。


 相沢は、晴斗が持っているものを知っている。完全な中身までは知らないだろう。それでも、神崎側が動き始めていることを、相手は自分の家の前の車で知っている。


 晴斗の中には、車を見たなら今こそ出すべきだという考えもあった。相手が脅していることまで含めて世に出せば、神崎側は動きにくくなる。だが、その「今こそ」という言葉を、晴斗は何度も自分のために使ってきた。


 「まだ、決めていません」


 ようやく言うと、相沢の息が止まったように聞こえた。


 「決める前に、私たちのことを思い出してください」


 責める声ではなかった。


 だから、晴斗には余計に痛かった。


 「私、あの時、話してよかったと思っています。でも、夫も子どもも、ずっと怖がっています。誰かが正しいことをするたびに、私たちがまた隠れなきゃいけないなら……」


 言葉は最後まで続かなかった。


 晴斗は、送信画面を見た。


 画面の中では、資料はただのファイル名になっている。係長の手帳も、相沢の声も、建設部の職員の恐怖も、圧縮ファイルの中では同じ重さだった。


 「分かりました」


 晴斗は言った。


 「出す前に、考えます」


 電話が切れた後、晴斗はすぐにパソコンを閉じなかった。送信ボタンの下に、資料の容量が表示されている。三十六メガバイト。人の生活を揺らすものが、画面の隅ではそれだけの数字に見える。


 晴斗は下書きから添付を外した。


 画面が軽くなる。


 けれど、胸の中は軽くならなかった。


 資料を出さなければ、神崎は動き続ける。出せば、相沢たちはまた怯える。どちらを選んでも、晴斗は誰かを守れない。


 ホームから電車が出ていく。窓の明かりが、暗い線路をゆっくり流れた。


 晴斗はパソコンを閉じ、鞄へしまった。


 送らなかった指先だけが、冷たくなっていた。

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