第八十六話:誰もいない部屋
晴斗は市民交流センターの会議室を借りた。
青嵐の会が以前、地域の防災計画を話し合った部屋だった。壁際にはホワイトボードがあり、窓の外には駅前のロータリーが見える。夕方になると、帰宅する人の列が横断歩道を渡っていく。
晴斗は机を四つ並べ、その上に資料を置いた。
県と市の照会記録。契約変更の一覧。研究会への委託料。黒い手帳のコピー。係長から受け取ったUSBの中身。紙の束は、順番に並べると一つの話になった。
神崎が県から圧力をかけ、市川が市の中を押さえ、業者が金を回す。
晴斗はホワイトボードへ、関係者の名前を書いた。矢印を引き、日付を添え、資料番号を丸で囲む。かつて市民の相談を整理していた時の手つきが、勝手に戻ってくる。
午後六時に、健太と美咲へ連絡した。
資料を見てほしい。今夜だけでいい。返事を待っている。
送信してから、晴斗は机の上の時計を見た。
六時十分。六時二十分。部屋の外では、清掃用具を押す音が通り過ぎる。晴斗は一度、資料の順番を直した。健太なら、最初に数字の矛盾を指摘するだろう。美咲なら、こんな形で市民に見せるつもりなのかと訊くだろう。
六時半を過ぎても、誰も来なかった。
携帯は静かなままだった。
晴斗は窓際へ歩き、ロータリーを見下ろした。健太は以前、街頭演説の後に、聞いてくれる人が十人でもいれば十分だと言った。美咲は、資料は人の顔を思い出せるように作らなければ駄目だと笑っていた。
あの頃、晴斗は二人の言葉を聞いていた。聞いているつもりで、最後には自分の結論へ使っていた。いつからか、皆は仲間ではなく、晴斗が走るための部品になっていたのかもしれない。
晴斗は、二人が忙しいのだと思おうとした。連絡に気づいていないだけかもしれない。けれど自分が送った文章を読み返すと、そこには資料のことしか書かれていない。元気かとも、急で悪いとも、最近どうしているのかとも書いていなかった。
必要な時だけ呼び出す。
それが、自分のしてきたことだった。
七時前、若林から短い返信が来た。
今日は行けない。今の君と資料の話をする気にはなれない。
画面の文字は、あまりにまっすぐだった。
晴斗は椅子へ座った。会議室の蛍光灯が、白い紙の上へ均一に落ちている。資料は誰かに見せるために並べたのに、今は誰もいない部屋で、自分だけを責めるものに見えた。
それでも、神崎を倒すには急がなければならない。
この資料を、匿名で報道機関へ送ればいい。名前を隠せば、係長も、写真を送った職員も守れる。神崎側は混乱し、市川は市長を守れなくなる。
晴斗はパソコンを開いた。
匿名送信の画面を開く前に、結衣のメールアドレスが候補に表示された。以前は何かあれば最初に送っていた名前だ。晴斗はそこへカーソルを合わせ、すぐに外した。
結衣なら資料の穴を見つけるだろう。出どころを確認し、表へ出す順番を考えろと言うだろう。しかし今の晴斗が連絡すれば、それは相談ではない。自分が決めた道を肯定してほしいという要求になる。
画面に、報道各社の情報提供窓口が並ぶ。ファイルを圧縮し、パスワードを設定する。送信先を選ぶだけで、何年も続いた利権の網へ火をつけられる。
指先が、トラックパッドの上で止まった。
匿名で出せば、資料の出どころは必ず探られる。係長はもう一度呼び出されるだろう。建設部の職員も、誰が写真を撮ったのかを疑われる。守るために匿名にするという考えが、実は自分だけ安全な場所へ立つための言い訳ではないか。
会議室の扉が開いた。
晴斗は顔を上げた。
入ってきたのは、会場の管理人だった。忘れ物がないかを確認し、七時には施錠するという。晴斗は慌てて紙を重ねた。
管理人は部屋を見回し、用意された椅子の数に目を留めた。
「会議、終わりましたか」
晴斗は、少し遅れて答えた。
「まだ、始まっていません」
管理人は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
資料を鞄へしまうと、紙の角が揃わなかった。晴斗は何度も押さえ直した。
誰もいない部屋で、完成したはずの爆弾だけが、鞄の中で重くなっていた。




