第八十五話:爆弾の完成
建設部の人事異動表を開いたまま、晴斗は夜を越した。
画面には、職員の名前と異動先だけが並んでいる。係長補佐から主査へ。建設部から危機管理課へ。退職。晴斗はその一つ一つへ、匿名ファイルの数字や、図書館で見た支出記録を重ねていった。
資料を追うほど、人の名前が増える。
名前が増えるほど、晴斗の中から人の顔が消えていく。
朝、窓の外が明るくなった頃、晴斗は一人の退職者の名で手を止めた。元建設部の文書担当。二年前に早期退職し、今は市内の測量会社に勤めている。匿名ファイルのキャビネット写真が撮られた時期、彼はまだ庁舎にいた。
晴斗は電話番号を探した。
市のOB会名簿には載っていない。会社の代表電話へかければ、本人につながるかもしれない。だが、こちらの名前を出した瞬間、相手は身構えるだろう。神崎側へ連絡が行く可能性もある。
それでも、晴斗は受話器を取った。
昼過ぎ、晴斗は測量会社の近くにある喫茶店で男を待っていた。
店内には、昼休みを終えた会社員が二、三人いるだけだった。窓際の席からは、県道を走る大型車が見える。晴斗はコーヒーを一口も飲めず、テーブルの下で封筒の端を何度も押さえた。
約束の時間を十分過ぎて、男が入ってきた。
六十代半ばくらいだろう。背広ではなく、紺色の作業着を着ている。晴斗を見つけると、露骨に顔をしかめた。
「木島議員が、私に何の用です」
男は座らずに言った。
晴斗は、事前に用意していた名刺を差し出した。
「令和元年度の広域防災啓発業務について、資料の保存状況を確認したいんです」
男は名刺を受け取らなかった。
「退職した人間に聞くことじゃない」
晴斗は封筒から、キャビネットの写真を半分だけ見せた。赤いテープの文字が見える程度に、紙を机の上へ置く。
男の目が変わった。
「それを、どこで」
声は低かったが、さっきよりも硬い。
晴斗は答えなかった。答えれば、匿名の職員を探すきっかけになる。けれど、男の反応を見た瞬間、晴斗の中で別の計算が動き始めた。写真をもっと見せれば、話すかもしれない。異動表のことも、娘が県庁の臨時職員をしていることも、自分は知っている。
その考えが浮かんだ時、胸の奥が冷えた。
晴斗は写真を封筒へ戻した。
「資料の出どころは言えません」
男は椅子を引いた。帰るつもりなのだと思った。
「ただ、あなたが保管場所を知っているなら、市民として、消される前に確認したい」
男の手が止まった。
窓の外をトラックが通り、店のガラスが震えた。男は長い間、晴斗を見ていた。その目には、警戒と、わずかな軽蔑が混じっている。
「市民として、ですか」
晴斗は頷いた。
男はようやく椅子へ腰を下ろした。
「別冊は、正式な簿冊じゃない。部長が持ち回りで保管していた、会議の覚え書きだ」
男はテーブルの砂糖入れを指先で回しながら話した。県の担当者や業者が来た時、誰が何を言ったか。正式な議事録には残せないことを、手書きで残していた。後で責任を押しつけ合う時のために。
「どこにありますか」
晴斗が尋ねると、男は笑わなかった。
「もうないはずです」
「はず、というのは」
男は窓の外へ目を向けた。
「廃棄すると言われた日に、一冊だけ見当たらなかった。誰かが持ち出したのか、誰かが隠したのか。私は知らない」
その後、男はコーヒーを頼まずに店を出た。
晴斗は一人残り、テーブルへ置かれた砂糖入れを見た。回るものは、少しの力で止まる。だが、一度回り始めた疑いは、そう簡単には止まらない。
事務所へ戻ると、机の上に茶封筒が届いていた。差出人はない。
中には、黒い表紙の手帳のコピーが入っていた。県の課長補佐、神崎秘書、叶野建設専務。日付の横に並ぶ名前。最後のページには、短い手書きの文があった。
市長には市川から話を通す。葉山は動く。
晴斗は紙を持ったまま、立ち尽くした。
これなら、神崎と市川と業者の線をつなげられる。
爆弾は、形になり始めていた。




