第八十四話:毒の証拠
市立図書館の行政資料室は、午後になると暖房が効きすぎる。
晴斗は窓際の閲覧席へ、年度ごとの予算書を積み上げていた。古い紙の匂いが、薄いカーペットと混じっている。利用者は少ない。奥の席では、年配の男性が郷土史の本を読んでいた。ページをめくる音が、広い室内に一定の間隔で響く。
晴斗は研究会への委託料を追っていた。
匿名ファイルにあった金額を、公開されている決算書と照らし合わせる。平成三十年、地域経済調査委託。令和元年、広域防災啓発業務。名前は違うが、委託先の住所は同じビルの同じ階だった。代表者の名前も、神崎後援会の名簿にある人物と一致する。
ここまでは、公開資料だけでも確認できた。
晴斗はノートへ日付を書いた。けれど肝心の金が、どこからどこへ流れたのかは、まだ紙の外にある。表に出ている記録だけでは、神崎は必ず、合法的な委託だと答えるだろう。
背後で、資料室の扉が開いた。
市役所の総務課にいた職員が、返却用の台車を押して入ってくる。晴斗と目が合うと、職員はわずかに会釈をした。晴斗は以前、この男から公文書の保存年限について教えてもらったことがある。
声をかけるべきではない。
そう思った。係長の件が庁内に広がっている今、自分が近づくだけで、職員は何かを求められると感じる。
それでも晴斗は、椅子から立った。
「すみません。保存文書について、一つだけ聞いてもいいですか」
職員は台車の取っ手を握ったまま、返事をしなかった。
晴斗はすぐに続けた。
「答えにくければ、いいんです。業務委託の検収書は、通常どの課に残るのかだけ」
職員は周囲を見た。資料室には他に二人しかいない。それでも、声を潜めた。
「契約管財か、担当課です」
「原本は」
晴斗の問いに、職員の眉がわずかに寄った。答えを急かしていると、自分でも分かった。けれど、ここで一度引けば、次に同じ問いを持ちかけることはできないかもしれない。その焦りが、声の間ににじんでいた。
「案件によります」
短い答えの後、男は台車を動かしかけた。晴斗はそこで止めればよかった。
だが、匿名ファイルの中にあった一つの記録が頭をよぎった。検収日だけが、支払い日より後になっている。正式な手続きならあり得ない順番だった。
「令和元年度の広域防災啓発業務です」
職員の手が止まった。
台車の車輪が、小さく軋む。
「その案件なら、検収書は総務課にはありません」
男は、それだけ言った。
晴斗は、何も聞かなかった。聞けば、この人まで巻き込む。だが男の表情には、続きがあることが見えた。何かを知っている。あるいは、何かを知っている人を知っている。
以前の晴斗なら、今ここで止めずに訊いたはずだった。相手が口を閉じる前に、知っている資料の名前を並べ、逃げ場がないことを示しただろう。その方が早い。神崎を追うには、早さが必要だと信じていた。
しかし、資料室の窓へ映る職員の横顔には、係長と同じ疲れがあった。晴斗はその顔を見て、もう一度だけ、言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございます」
晴斗は頭を下げた。
職員は返さず、台車を押して書架の向こうへ消えた。
夕方、図書館を出ると、携帯に一通のメールが入っていた。送信者は、さっきの職員だった。
本文は空欄で、画像が一枚だけ添付されている。
古いキャビネットの写真だった。引き出しの端に、赤いテープで「別冊」と書かれている。撮影日時は二年前。画像の下には、建設部保管、とだけある。
晴斗は歩道の端で立ち止まった。
これが証拠かもしれない。
いや、証拠へ続く場所を示すだけのものかもしれない。
それでも、画面を見ているうちに、胸の奥で冷たいものが動き始めた。建設部の誰がそのキャビネットを管理しているか。誰なら、引き出しの中身を知っているか。調べれば分かる。家族も、勤務先も、弱みも。
晴斗は、考えた自分に気づいて携帯を伏せた。
だが、その夜にはもう、建設部の人事異動表を開いていた。
画面の文字を追う目は、止まらなかった。




