第八十三話:最深部のデータ
晴斗はメールを印刷しなかった。
プリンターの前へ立ちかけてから、手を止めた。紙にすれば持ち出せる。誰かへ渡せる。誰かの机に置けば、そこから先は自分だけの秘密ではなくなる。
だからこそ、今は出力できなかった。
画面に並ぶ数字の中には、神崎の後援会へつながる金の流れがある。けれど添付ファイルには作成者の名前も、送信経路も残されていない。誰かが命を削るように集めたものかもしれない。あるいは、晴斗を事故へ追い込むために置かれた餌かもしれない。
晴斗は机の引き出しから、係長のUSBを出した。
二つのデータを並べ、日付を照らし合わせる。設計変更の決裁日。県からの照会日。叶野建設の関連会社が研究会へ金を送った日。別々の資料に同じ番号が出てくるたび、背中へ冷たいものが走った。
偶然ではない。
そう思う一方で、晴斗はノートへ「一致」と書かず、「要確認」と書いた。確信を急げば、資料は自分の怒りの形に曲がる。昨夜、佐伯に言われたことが、指先を止めていた。
晴斗は古い予算書を棚から引き抜いた。紙の端は何度もめくられて柔らかくなっている。予算書の中にある事業番号を、画面の数字と一つずつ比べた。途中で、同じ金額なのに事業名だけが違う項目を見つけた。市の書類では調査委託、県の書類では広報業務。どちらも地域経済研究会へ支払われている。
晴斗はそこに丸をつけた。しかし丸をつけた瞬間、何かを掴んだ気になってしまう自分がいる。資料は、人の心を早く結論へ運ぶ。だからこそ、晴斗はページの余白へ、支出理由の原本を確認、と書き添えた。
昼過ぎ、見知らぬ番号から電話が入った。
晴斗は一度、画面が消えるまで待とうとした。だが、メールのことが頭にある。発信者を確かめずに切ることが、誰かの助けを拒むことになるかもしれない。
「木島です」
電話の向こうで、しばらく息を殺すような沈黙が続いた。
「ファイルは、見ましたか」
男の声だった。年齢も、立場も分からない。周囲の物音がないことが、かえって不自然だった。
晴斗は椅子へ座り直した。
「あなたが送ったんですか」
返事はなかった。代わりに、短い咳払いが聞こえた。
「全部を信じないでください」
男は低く言った。
「本物もある。違うものも混じっている。誰かが、あなたに急がせたいんです」
晴斗の目が、画面の数字へ戻った。最初から完全な爆弾だと思った自分が恥ずかしかった。神崎を倒せる資料が、都合よく届く。そんな話を、なぜ疑わなかったのか。
「誰が急がせたい」
晴斗が尋ねた時、電話は切れた。
部屋の中には、パソコンの冷却音だけが残った。
晴斗は受話器を置いたまま、しばらく椅子から立てなかった。電話の男が味方なのか、神崎側の人間なのか、それさえ分からない。分からない相手の言葉で、晴斗の手が止まったことだけが悔しかった。
けれど、止まることを悔しがる自分にも気づいた。これまでの晴斗は、迷いを弱さとして切り捨ててきた。誰かが立ち止まるたび、その背中を置いて先へ進んだ。その先にあったのが、今の空っぽの事務所だった。
晴斗はデータを閉じず、項目を一つずつ別の表へ移した。確認できたもの、確認できないもの、誰かの証言が必要なもの。作業は遅い。神崎が笑っている間にも、証拠は消されるかもしれない。
それでも、急いで間違えれば、また誰かを巻き込む。
夕方、窓の外の街灯が点き始めた。晴斗は資料の最後に、新しい一行を書き加えた。
これは、まだ武器ではない。
その文字を見つめながら、数字の並びは、答えを急ぐ晴斗の心を何度も引っ張った。それでも、急いで意味を決めれば、見落とすものがある。
その夜、晴斗は初めて、真実へ近づくほど慎重にならなければならないことを知った。




