第八十二話:虚無の底
翌朝、事務所の鍵を開けても、誰もいなかった。
いつもなら健太が先に来て、窓を少し開けている。美咲は机の上の散らかったチラシをまとめ、結衣は湯を沸かしながら、昨夜届いたメールを読み上げる。そんな朝の音が、この部屋にはあった。
今は、鍵を回す音だけが大きく響いた。
晴斗は扉の前で立ち尽くした。壁際に並ぶ椅子は空いている。結衣が使っていたマグカップは洗われて伏せてあり、健太のノートパソコンもない。皆が戻るつもりで席を外したのではないことが、机の上から伝わってきた。
窓を開けると、冷たい風が入った。駅前へ向かうバスが交差点を曲がり、ブレーキの音を残していく。外の街はいつも通り動いている。晴斗だけが、誰もいない部屋へ取り残されているようだった。
壁に貼られた問題地図へ目をやる。
黄色い付箋には、かつて市民から聞いた困りごとが書かれていた。公園の照明が暗い。通学路の側溝が危ない。商店街の空き店舗をどうにかしてほしい。
その上から、晴斗はいつの間にか赤い線を引いていた。県土木部。叶野建設。神崎後援会。誰が誰とつながっているのかを示す線が、街の小さな声を覆い隠している。
最初にこの地図を作った時、自分は何をしたかったのか。
晴斗は考えた。
市民の声がどこで止まるのかを、見えるようにしたかった。誰か一人が困っていることを、政治の都合で小さく扱わせないために。
今の地図は違う。
敵を探すための地図になっている。
最初の赤い線を引いた夜のことを、晴斗は覚えていた。市の資料に出てきた会社名と、県の入札記録にあった会社名が重なった。それを見つけた時は、霧の中に道が見えた気がした。次の線を引けば、また一つ真実へ近づける。そう思っていた。
だが線は増えるほど、晴斗の視界を狭くした。問題を抱えた市民の名前より、敵の名前を先に探すようになった。相談に来た人の声を聞きながらも、その人が利権のどこにつながるのかを考えていた。
晴斗は赤いペンを手に取ったが、線を消すことはできなかった。消せば、神崎がやってきたことまで消えるわけではない。けれど、このまま見ていると、自分が何のために戦っているのかも分からなくなる。
パソコンの起動音が、静かな部屋に鳴った。
未読メールが一件届いている。差出人は空欄だった。件名には、KP最終版、とだけ書かれている。
晴斗は画面から目を離した。
知らない送り主。開けば罠かもしれない。神崎側が、晴斗をさらに追い込むために仕掛けたものかもしれない。それでも指は、マウスの上へ伸びた。
添付されていたのは、圧縮ファイルだった。
解凍すると、表計算の画面に数字が並んだ。広域防災事業の事業費。県から市へ流れた補助金。市から関連団体へ出た委託料。さらに、叶野建設の協力会社を経由して、地域経済研究会へ入った金。
研究会の代表は、神崎の後援会長だった。
晴斗は椅子へ座り直した。
画面をスクロールするたび、年月と金額が続く。数字の列の下には、会食の予約記録らしいファイルもあった。県の方は先生に話を通してある。葉山は市川がまだ押さえられる。音声ファイルから聞こえた男たちの声は、ひどく気軽だった。
誰かの暮らしを削る金が、彼らにとっては酒の席の話題にすぎない。
怒りが、腹の底からせり上がった。
これを出せばいい。
神崎の名前も、金の流れも、音声もある。市川の時代から続いたものを、まとめて表へ出せる。晴斗は一瞬、昨夜佐伯に言われたことを忘れた。
だが、ファイルの最後に一枚のメモがあった。
送信元を追わないこと。市の中に、まだ助けを待つ人間がいること。
短い一文を読んだ途端、晴斗の手が止まった。
資料は爆弾ではない。誰かが、自分の恐怖を抱えたまま、外へ投げた救難信号なのかもしれない。
晴斗はパソコンを閉じなかった。
誰もいない事務所で、画面の青い光だけが、赤い線だらけの地図を照らしていた。




