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【4作目・執筆中】青嵐の旗を掲げて ~地方議会・立志激闘篇~  作者: 立花大二
第六部:闇の取引と深淵篇

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第八十一話:佐伯の問い

 市役所の食堂は、正午になると急に騒がしくなる。


 昼休みの職員たちが、トレーを持って一斉に列へ並ぶ。味噌汁の湯気と、揚げ物の匂いが広い部屋へ混じっていた。晴斗は入口近くの自動販売機の前に立ち、誰かが通り過ぎるのを待っていた。


 待っているのは、道路整備課の若い職員だった。


 係長の部下で、先週、予算書の照合について電話をくれた女性である。彼女は同僚二人と食堂から出てきた。晴斗に気づくと、足を止めるより早く、会話を切った。


 「すみません」


 晴斗が呼びかけると、女性は振り返った。


 「少しだけ、聞きたいことが」


 女性の顔から血の気が引いた。同僚たちが、彼女を挟むように一歩前へ出る。


 晴斗は、その反応を見て言葉を失った。


 自分は名前を呼んだだけだった。資料のことも、係長のことも言っていない。なのに相手は、何を聞かれるのかを知っている顔をした。知られている。晴斗が職員へ近づき、何かを引き出そうとしていることが、庁舎の中へ広がっている。


 「いや、いいです」


 晴斗は手を下ろした。


 女性は何も言わず、同僚と一緒に歩き去った。彼女の背中が食堂の角を曲がるまで、晴斗は動けなかった。


 係長が言った言葉が、頭の中で繰り返される。


 君も、資料を持って、私が何を失うか知っている顔をしていた。


 午後、晴斗は議員控室へ戻った。机の引き出しには、昨夜受け取ったUSBがある。小さな黒い塊が、引き出しの奥で静かに横たわっている。


 開けば、また何かが分かる。


 分かれば、神崎へ近づける。


 だが、分かることと、正しく使えることは同じではない。晴斗は引き出しを閉め、手帳を開いた。そこには一般質問の準備事項が並んでいる。市民相談、補助金の照会、次回の委員会日程。以前なら、そこへ新しい資料の名前を書き足していた。


 その日は、何も書けなかった。


 夜、佐伯の店へ向かった。


 扉を開けると、カウンターには常連らしい男が二人いた。テレビでは野球中継が音を消して流れている。佐伯は晴斗を見ると、何も聞かずに水のグラスを置いた。


 晴斗は一番端の席に座り、上着の内ポケットからUSBを出した。


 「また、増えました」


 佐伯はグラスを拭く手を止めた。


 「何がだ」


 「神崎へつながる資料です」


 晴斗はUSBをカウンターの上へ置いた。小さな傷が、照明を受けて白く光る。


 「係長が渡してきました。県と市と業者が、設計変更の前に会っていた記録です」


 佐伯はUSBを見たが、手には取らなかった。


 「それで」


 「それで、僕はこれを使います」


 言い切った瞬間、胸の奥にある迷いまで切り捨てたような気がした。神崎を止めるには、この資料が必要だ。今さら立ち止まれば、係長が抱えてきた恐怖まで無駄になる。晴斗はそう思いたかった。


 佐伯は棚からボトルを一本取り出し、別の客のグラスへ酒を注いだ。琥珀色の液体が、細い音を立てて落ちていく。


 「使う、というのは便利な言葉だな」


 晴斗は佐伯を見た。


 「事実を出すだけです」


 「誰の事実を、誰のために出す」


 問いは短かった。


 晴斗はすぐに答えられなかった。市民のため。そう言えばいい。実際、そのために始めたことだった。しかし、係長の怯えた目を思い出すと、その言葉が口の中で止まる。


 「神崎を止めるためです」


 ようやく出た答えに、佐伯は頷きもしなかった。


 「神崎を止めることと、街を守ることは、同じか」


 カウンターの向こうで、製氷機が低く唸った。


 晴斗は水のグラスを持ち上げたが、口をつけなかった。神崎を倒せば、市の中にある不正も、県の圧力も、すべて終わると思っていた。それが自分をここまで動かしてきた。


 けれど、神崎を倒すために職員を震えさせ、自分の周りから人を遠ざけるなら、その後に残る街は何なのか。


 「じゃあ、どうすればいいんですか」


 声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 佐伯は、窓の外へ目を向けた。夜の歩道を、傘を差した人が急ぎ足で通っていく。


 「その答えを、俺に聞くな」


 晴斗は黙った。


 佐伯は続けた。


 「お前は、正しい答えをもらってから動こうとする。だが、そんなものはない。資料を出せば誰かが傷つく。出さなければ、別の誰かが傷つく。その中で、お前が何を選んだかだけが残る」


 晴斗はUSBを握った。


 金属の角が、掌へ食い込む。


 「怪物のまま神崎を倒すのか。それとも、神崎に倒される前に引き返すのか」


 佐伯の言葉は、店の静かな空気を切った。


 晴斗は、返事をしなかった。


 返事をすれば、どちらかを選んだことになる気がした。水の表面には、店の灯りが細く揺れている。その揺れを見ているうちに、晴斗は自分がどこへ向かっているのか、本当に分からなくなった。


 店を出ると、さっきまでの乾いた夜気が、頬に冷たかった。


 晴斗はUSBをポケットへしまわず、掌に握ったまま、人気のない通りを歩き出した。

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