第八十一話:佐伯の問い
市役所の食堂は、正午になると急に騒がしくなる。
昼休みの職員たちが、トレーを持って一斉に列へ並ぶ。味噌汁の湯気と、揚げ物の匂いが広い部屋へ混じっていた。晴斗は入口近くの自動販売機の前に立ち、誰かが通り過ぎるのを待っていた。
待っているのは、道路整備課の若い職員だった。
係長の部下で、先週、予算書の照合について電話をくれた女性である。彼女は同僚二人と食堂から出てきた。晴斗に気づくと、足を止めるより早く、会話を切った。
「すみません」
晴斗が呼びかけると、女性は振り返った。
「少しだけ、聞きたいことが」
女性の顔から血の気が引いた。同僚たちが、彼女を挟むように一歩前へ出る。
晴斗は、その反応を見て言葉を失った。
自分は名前を呼んだだけだった。資料のことも、係長のことも言っていない。なのに相手は、何を聞かれるのかを知っている顔をした。知られている。晴斗が職員へ近づき、何かを引き出そうとしていることが、庁舎の中へ広がっている。
「いや、いいです」
晴斗は手を下ろした。
女性は何も言わず、同僚と一緒に歩き去った。彼女の背中が食堂の角を曲がるまで、晴斗は動けなかった。
係長が言った言葉が、頭の中で繰り返される。
君も、資料を持って、私が何を失うか知っている顔をしていた。
午後、晴斗は議員控室へ戻った。机の引き出しには、昨夜受け取ったUSBがある。小さな黒い塊が、引き出しの奥で静かに横たわっている。
開けば、また何かが分かる。
分かれば、神崎へ近づける。
だが、分かることと、正しく使えることは同じではない。晴斗は引き出しを閉め、手帳を開いた。そこには一般質問の準備事項が並んでいる。市民相談、補助金の照会、次回の委員会日程。以前なら、そこへ新しい資料の名前を書き足していた。
その日は、何も書けなかった。
夜、佐伯の店へ向かった。
扉を開けると、カウンターには常連らしい男が二人いた。テレビでは野球中継が音を消して流れている。佐伯は晴斗を見ると、何も聞かずに水のグラスを置いた。
晴斗は一番端の席に座り、上着の内ポケットからUSBを出した。
「また、増えました」
佐伯はグラスを拭く手を止めた。
「何がだ」
「神崎へつながる資料です」
晴斗はUSBをカウンターの上へ置いた。小さな傷が、照明を受けて白く光る。
「係長が渡してきました。県と市と業者が、設計変更の前に会っていた記録です」
佐伯はUSBを見たが、手には取らなかった。
「それで」
「それで、僕はこれを使います」
言い切った瞬間、胸の奥にある迷いまで切り捨てたような気がした。神崎を止めるには、この資料が必要だ。今さら立ち止まれば、係長が抱えてきた恐怖まで無駄になる。晴斗はそう思いたかった。
佐伯は棚からボトルを一本取り出し、別の客のグラスへ酒を注いだ。琥珀色の液体が、細い音を立てて落ちていく。
「使う、というのは便利な言葉だな」
晴斗は佐伯を見た。
「事実を出すだけです」
「誰の事実を、誰のために出す」
問いは短かった。
晴斗はすぐに答えられなかった。市民のため。そう言えばいい。実際、そのために始めたことだった。しかし、係長の怯えた目を思い出すと、その言葉が口の中で止まる。
「神崎を止めるためです」
ようやく出た答えに、佐伯は頷きもしなかった。
「神崎を止めることと、街を守ることは、同じか」
カウンターの向こうで、製氷機が低く唸った。
晴斗は水のグラスを持ち上げたが、口をつけなかった。神崎を倒せば、市の中にある不正も、県の圧力も、すべて終わると思っていた。それが自分をここまで動かしてきた。
けれど、神崎を倒すために職員を震えさせ、自分の周りから人を遠ざけるなら、その後に残る街は何なのか。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
声は、自分でも驚くほど掠れていた。
佐伯は、窓の外へ目を向けた。夜の歩道を、傘を差した人が急ぎ足で通っていく。
「その答えを、俺に聞くな」
晴斗は黙った。
佐伯は続けた。
「お前は、正しい答えをもらってから動こうとする。だが、そんなものはない。資料を出せば誰かが傷つく。出さなければ、別の誰かが傷つく。その中で、お前が何を選んだかだけが残る」
晴斗はUSBを握った。
金属の角が、掌へ食い込む。
「怪物のまま神崎を倒すのか。それとも、神崎に倒される前に引き返すのか」
佐伯の言葉は、店の静かな空気を切った。
晴斗は、返事をしなかった。
返事をすれば、どちらかを選んだことになる気がした。水の表面には、店の灯りが細く揺れている。その揺れを見ているうちに、晴斗は自分がどこへ向かっているのか、本当に分からなくなった。
店を出ると、さっきまでの乾いた夜気が、頬に冷たかった。
晴斗はUSBをポケットへしまわず、掌に握ったまま、人気のない通りを歩き出した。




