第八十話:凍った告白
翌朝、晴斗の携帯電話に係長から短いメッセージが届いた。
話します。午前十時、城山公園の東屋で。
それだけだった。
晴斗は画面を見つめたまま、事務所の窓際に立った。夜の雨は上がっていたが、空はまだ低い雲に覆われている。道路の水たまりを、通勤の車が濁った水ごと跳ね上げて通り過ぎた。
係長が何を話すつもりなのか、晴斗には分からない。
昨夜の顔を思い出すと、期待より先に嫌な予感がした。追い詰めた人間が口を開く時、そこには事実だけでなく、守りたいものを手放す痛みがある。自分はそれを受け取る資格があるのか。そう考えながらも、晴斗は約束の時刻より早く公園へ向かった。
城山公園は、冬になると人が少ない。桜並木は葉を落とし、枝の間から市街地が見える。東屋の屋根には、昨夜の雨がまだ残っていた。風が吹くたび、雫が一つずつ木の床へ落ちる。
係長は先に来ていた。
ベンチに座り、膝の上へ薄いビニール袋を置いている。スーツの襟元は整っていたが、靴には泥がついていた。家から出る時、急いだのかもしれない。
晴斗が近づいても、係長はすぐに顔を上げなかった。
「昨日は、すみませんでした」
最初にそう言ったのは、晴斗だった。
係長は短く笑った。笑ったというより、息が漏れただけだった。
「謝らなくていい。君は、必要なことをしているつもりなんだろう」
晴斗は答えなかった。
係長はビニール袋を膝から下ろした。中には、古いUSBメモリと、折り目のついたメモ帳が入っている。
「設計変更は、現場の判断じゃない」
男の声は、凍った地面を踏む時のように硬かった。
「県から連絡があった。直接ではない。部長のところへ電話が入って、その日のうちに会議が組まれた。会議といっても、議事録は残していない」
晴斗はメモ帳を見た。表紙には、道路整備課と印字されている。係長はページを開き、会議の日付と出席者の名字を指で示した。
そこには、市の部長、副市長、県土木部の課長補佐、そして叶野建設の専務の名前があった。
「業者が市役所にいたんですか」
晴斗の声が低くなった。
「表向きは、別件の打ち合わせだ」
係長は視線を落とした。
「でも、皆分かっていた。あの工事は、最初の計画のまま進めれば、採算が合わないと。県の補助金を増やすには、事業の理由を作り直す必要があった」
東屋の外を、小学生の列が通っていった。引率の教師が、車道側へ子どもを寄せている。赤い帽子が風に揺れ、すぐに木立の向こうへ消えた。
係長はその背中を見送った。
「私は、回ってきた文書へ印を押しただけです」
言葉の終わりに、男の唇が震えた。
晴斗は、昨夜ならその言葉を逃げだと思ったかもしれない。
だが今、係長の手を見ていると、印を押しただけという言葉の中に、何年も積もった恐怖があるのが分かった。
押さなければ次の仕事が来なくなる。
異を唱えれば、家族の勤め先まで知られる。
そんな空気の中で、正しいことを言える人間がどれほどいるのか。
「なぜ、今になって話すんですか」
係長は、ビニール袋の口を何度も折り直した。
「昨日、君に会って怖かった」
晴斗の胸が詰まった。
「神崎が怖いのと同じくらい、怖かった。君も、資料を持って、私が何を失うか知っている顔をしていた」
晴斗は返す言葉を失った。
係長はUSBを東屋の机に置いた。
「これは、会議の後に部長の端末からコピーしたものです。使えば、あの人たちは困る」
晴斗は手を伸ばしかけ、止めた。
「家族のことは」
係長は首を横に振った。
「君に守ってもらうつもりで渡すんじゃない。もう、誰かの守るという言葉を信じられない」
冷たい風が東屋へ吹き込んだ。
「ただ、これを持ったまま、自分だけ助かるのも嫌なんです」
晴斗は、USBをすぐには取らなかった。自分が受け取れば、この人の生活はさらに危うくなる。拒めば、係長はまた一人で抱えることになる。
ようやく晴斗は、机の上のUSBを両手で包んだ。
「あなたの名前は、僕が勝手に使いません」
係長は顔を上げた。
晴斗は続けようとして、言葉を選んだ。
「使うかどうかも、僕一人で決めません」
係長は何も言わなかった。ただ、凍えていた表情がほんの少しだけ緩んだ。
東屋の屋根から、最後の雫が落ちた。
その小さな音を、晴斗は長い間、聞いていた。




