第七十九話:家族の影
市役所の裏口は、閉庁後になると別の建物のようだった。
昼間は業者の車や公用車が絶えず出入りする搬入口も、夜の八時を過ぎれば、濡れたアスファルトの上に非常灯だけが白く落ちている。雨は夕方から細く降り続いていた。風に流された雫が、庇の端から規則正しく落ちている。
晴斗は庇の下に立ち、手の中の封筒を握った。
中にあるのは、県土木部から市の道路整備課へ送られた照会の写しだった。日付は、川西地区の排水路工事の設計が変わる三日前。その文書に、係長の小さな決裁印がある。
ただの回覧だったのかもしれない。
そう思おうとしても、同じ頃に係長の自宅付近へ、県の外郭団体の車が出入りしていたという記録が、晴斗の頭から離れなかった。誰かを疑い始めれば、つながるものは次々に見つかる。偶然まで意味を持ち始める。その感覚の危うさを、晴斗は知っていた。
裏口の自動扉が開いた。
灰色の傘を差した係長が、足早に出てきた。肩には革の鞄を掛けている。晴斗の姿を見つけた瞬間、男の歩みが止まった。雨音だけが、二人の間を埋めた。
「こんな時間まで、何の用ですか」
係長の声は低かった。怒っているというより、すでに何かを諦めている声だった。
晴斗は封筒を差し出さなかった。見せれば、話はすぐに資料の取り合いになる。まず、ここにいる男が何を怖がっているのかを知りたかった。
「三年前の排水路工事について、確認したいことがあります」
係長は傘を持つ手を強く握った。
「議会で聞けばいいでしょう」
「議会で答えられる内容なら、最初から来ていません」
言った直後、晴斗は自分の声の冷たさに気づいた。係長の顔がさらにこわばる。追い詰められた人間へ近づく時、自分はいつから、こんな言い方をするようになったのか。
係長は裏口のガラス戸を振り返った。庁舎の中には、まだ宿直の職員がいる。ここで大きな声を出せば、誰かが気づくだろう。それでも助けを求める気配はなかった。
「あなたは、僕の家まで調べたんですか」
晴斗は答えられなかった。
資料の中に、係長の妻が市立病院の非常勤職員として働いていることも、娘が高校受験を控えていることもあった。自分から探した情報ではない。だが、知ってしまった時点で、知らないことにはできなかった。
「妻は関係ない。子どももいるんだ」
係長の言葉は、雨の中で不自然なほどはっきり聞こえた。
晴斗の胸の奥に、昨日かかってきた電話の声が蘇った。相沢の妻は、夫が怯えて帰ってこないと泣いていた。政治家はいつも、人の家のことまで壊すのかと。
目の前の係長も、同じ顔をしている。
神崎に脅されている人間の顔。
そして、晴斗を恐れている人間の顔。
「家族を巻き込んできたのは、神崎です」
晴斗はそう言った。言い返したかったわけではない。自分へ言い聞かせるように、言葉が口から出た。
係長は濡れた前髪を払った。その目には怒りよりも、深い疲れがあった。
「だから君も同じことをするのか」
その一言で、封筒の重みが急に増した。
晴斗は、今すぐ資料を出して、これがあると告げればいいと思った。
県との照会記録。
決裁印。
係長が見落としたくても見落とせないものを、雨の下で突きつければいい。
そうすれば男は話すかもしれない。神崎の名前も、県の指示も、すべて吐くかもしれない。
けれど、それは市民のために必要なことなのか。
それとも、晴斗が自分の無力さを忘れるために、もう一人を屈服させたいだけなのか。
係長は、晴斗が黙ったことを拒絶と受け取ったらしい。傘を閉じ、鞄から鍵を出した。
「木島議員」
背を向けたまま、男は言った。
「君は、自分が何をしているか分かっているのか」
その言葉は、問いではなく、最後の願いのように聞こえた。
晴斗は返事をしなかった。
係長は庁舎の中へ戻っていった。自動扉が閉まり、男の背中は白い蛍光灯の下へ消える。晴斗は雨の中に一人残された。
封筒の端は、握りしめた指の跡で歪んでいた。資料を開けば、神崎へ続く道がまた一本増える。
それなのに晴斗には、その紙の中から、係長の娘が受験用の鞄を抱えて玄関を出る姿ばかりが見えた。
雨は、いつまでも止まなかった。




