第七十八話:闇を掘る手
相沢から届いたデータを、晴斗は夜が明けるまで読み続けた。
画面には、企業名と日付、短い連絡文が並んでいる。どれも一枚だけを見れば、ただの事務的なやり取りにしか見えない。だが、葉山市の南口再開発、県道改修、広域防災拠点の資料を横に置くと、同じ名前が何度も浮かび上がった。
叶野建設。
神崎の後援会が開いた政治資金パーティーの購入者名簿にも、その会社の名があった。金額は大きくない。けれど関連会社まで含めれば、毎年ほぼ同じ時期に、同じ団体へ金が流れている。
晴斗は印刷した紙を床へ広げた。
県。
市。
ゼネコン。
地域経済研究会。
赤いペンで線を引く。一本の線が、次の線を呼ぶ。机の脇には、結衣が昔使っていた色鉛筆が残っていた。市民相談を地図へ書き込む時、結衣は危ない交差点を赤、暗い街灯を青、子どもの遊び場を緑で塗っていた。
あの地図には、街で暮らす人の困りごとがあった。
今、晴斗が作っているのは違う。
誰がどこで嘘をつき、どこに金を隠し、どの弱みを握られているかを探すための地図だった。
その違いを認めたくなくて、晴斗は赤い線をさらに濃くした。
昼過ぎ。事務所の扉が開いた。
健太だった。
晴斗は立ち上がらなかった。健太が戻ってきたわけではないと、入口で靴を揃える仕草を見れば分かった。健太は室内の床に広がった資料と、壁へ貼られた紙を黙って見た。
「……すごいですね」
声は、褒める声ではなかった。
「こんなに見つけたんですか」
「まだ足りない」
晴斗は画面から目を離さずに言った。
健太は赤い線の一本を目で追った。
「この人たち、みんな悪い人なんですか」
「神崎に従って、街を売ってきた」
「家族がいる人も?」
晴斗の手が止まった。
健太は、しばらく答えを待ったが、やがて小さく息を吐いた。
「美咲さんから聞きました。晴斗さん、役人の人に家族のことを言ったって」
「神崎が先にやっている」
「だから、晴斗さんもやるんですか」
窓の外で、配送車のバック音が鳴った。短い電子音が、やけに長く続く。
晴斗は答えなかった。
健太は一歩だけ近づいた。
「俺たちが作りたかったのは、こういう地図じゃないと思います」
「僕たちには、もう正攻法で戦う時間がない」
「それでも、駄目です」
健太の声が震えた。
「晴斗さんが神崎県議を倒しても、晴斗さんまで同じものになったら、俺は喜べない」
晴斗は机の上のUSBを握った。
健太の言葉を聞けば、手が止まる。
だから、聞かないようにした。
「帰ってくれ」
健太の目が揺れた。
「晴斗さん」
「今は、誰の声も聞けない」
健太は何も言わず、ゆっくり扉を閉めた。
閉まる寸前、赤い線の貼られた壁が一瞬だけ見えた。
資料を照合する作業は、夜が深くなるほど単調になった。
日付、決裁番号、担当課、添付の有無。数字の列を追っていると、人の顔が消えていく。
晴斗は途中で手を止め、メモの端へ関係者の名前を書いた。
数字の向こうにも、帰る家と、守りたい生活がある。
そのことを忘れた瞬間、闇を掘る手は誰かを埋める手へ変わる。
午前二時を過ぎると、窓ガラスに映る自分の顔が見知らぬものに見えた。
晴斗は資料を読むために眼鏡を外し、目頭を押さえた。
眠れば判断が鈍る。
そう思って眠らないことを選んできたが、眠らない人間の判断が正しいとも限らない。
机の端には、結衣が以前置いていった栄養ドリンクの空き瓶があった。
誰かが心配していた時間さえ、晴斗は作業の邪魔として脇へ寄せてきた。
朝が近づく頃、外から新聞配達のバイクの音がした。
街は新しい一日を始めようとしている。
晴斗は画面を閉じ、資料の束へ手を置いた。
闇を掘り当てたと思うほど、手についた土を誰かへ見せられなくなっていた。
誰かを守るために始めたはずの手が、闇を掘る道具に変わっていた。




