第七十七話:折れた声
翌日の夜。『青嵐の会』の事務所。
壁の時計が、午後十時を回っていた。
晴斗はデスクの前に座り、伏せた携帯電話を見ていた。相沢に伝えた期限まで、あと二時間。窓の外では、商店街のシャッターが一枚ずつ下りていく。金属が擦れる音が、静かな室内まで届いた。
以前なら、この時間には健太が翌日の街頭演説の場所を確認し、美咲が市民からの電話を整理していた。結衣は古いノートパソコンの前で、相談内容を地図へ書き込んでいた。
今は、どの机も暗い。
健太の机には飲みかけのペットボトルが残っている。美咲の電話台には、剥がれかけた予定表がある。結衣のマグカップの底には、乾いたコーヒーの輪が薄く残っていた。
晴斗は、開いたままのメール画面へ目を戻した。
相沢からは、何も来ない。
当然だった。
自分が言ったことを思い返せば、相沢が晴斗を信用する理由などない。神崎に脅され、晴斗にも追い詰められた男が、誰のために資料を渡すのか。
午前零時を少し過ぎた時、事務所の郵便受けが小さく鳴った。
晴斗は椅子を引いた。
廊下には誰もいない。
薄い茶封筒が、一通だけ床に落ちていた。拾い上げると、紙は雨の湿気を吸って柔らかくなっている。
中にはUSBメモリと、折り畳まれた便箋が入っていた。
家族には近づかないでください。
震えた字で、それだけが書かれていた。
晴斗はデスクへ戻り、USBをパソコンに差し込んだ。
画面に並んだフォルダの名前を見て、息が止まりかける。
広域防災拠点。
県道改修。
葉山市南口。
別々の事業に見えた資料の中へ、同じ会社名が何度も出てくる。叶野建設。関連会社。地域経済研究会。
さらに、神崎事務所の秘書から県土木部へ送られたメールの写しがあった。
仕様の細部について、先生の意向を確認済み。
たった一文だった。
だが、その文の向こうに、県の予算、業者の選定、市の再開発が一本の線で繋がっていく。
晴斗は印刷を始めた。
プリンターが紙を吐き出す音が、誰もいない部屋に続く。白い紙の上へ、数字と企業名が次々に並んでいく。
その時、携帯電話が鳴った。
表示されたのは、登録のない番号だった。
晴斗は一瞬、出るのをためらった。だが、この時間に鳴る電話に、胸の奥がざわつく。
「……はい」
「……木島さんですか」
女の声は、ひどく掠れていた。
相沢の妻だった。
「夫は、帰ってきません」
晴斗は黙った。
「昨日、あなたに会った後から、ずっと何かに怯えていた。家の前に知らない車がいるって。電話の向こうで誰かが黙っているって」
受話器の向こうで、幼い子どもの泣き声がした。
「夫に、何をさせたんですか」
神崎が相沢を脅したのか。
自分が最初に相沢の逃げ場を奪ったのか。
どちらか一つを選べる問いではなかった。
「……分かりません」
晴斗の口から出た答えは、あまりにも弱かった。
「分かりませんじゃないでしょう」
女の声が震えた。
「あなたたち政治家は、いつもそうやって、人の家のことまで勝手に壊すんですか」
通話が切れた。
晴斗は受話器を置けなかった。
パソコンの画面には、神崎を追い詰めるための資料が光っている。
その光が、今夜はひどく冷たく見えた。
晴斗は印刷された紙を一枚手に取った。
そこには、誰かの名と、金額と、日付だけが並んでいる。
だが、その数字の向こうには、帰らない父親を待つ子どもがいる。
帰宅してから、晴斗は録音を何度も聞き返した。
声は小さく、途中で何度も途切れている。
聞き取れない箇所を都合よく補えば、証拠はたやすく強く見える。
その誘惑に気づくたび、晴斗は再生を止めた。
相手の折れた声を、さらに自分のために折ってはならないと思った。
紙を持つ晴斗の手が、初めて小さく震えた。




