第七十六話:地下の取引
翌日。午後六時二十五分。
県庁の地下駐車場は、地上の雨音から切り離されたように静かだった。天井の低いコンクリートには、古い蛍光灯の白い光がまだらに落ちている。車のエンジンが遠くで一度だけ唸り、排気の匂いが湿った空気へ混じった。
晴斗は、柱の脇に立って腕時計を見た。
メールに書かれていた時刻まで、あと五分。
神崎の罠かもしれない。
そう思うたび、昨夜の取調室が頭をよぎる。机の上の調書。記者のフラッシュ。職員たちの供述。もう一度、誰かを追い詰める場面を作られれば、晴斗は二度と議場へ戻れなくなる。
それでも、引き返すことはできなかった。
灰色のセダンが一台、ゆっくりと近づいてきた。晴斗から少し離れた場所で停まり、運転席の扉が開く。
降りてきたのは、三十代後半ほどの細い男だった。
県土木部企画調整課の相沢修司。
以前、防災計画の説明会で一度だけ顔を合わせたことがある。あの時の相沢は、資料を淡々と読み上げるだけの、目立たない職員だった。今日は、県職員の上着の襟まできつく閉め、何度も出入口の方を気にしている。
「……木島議員ですか」
晴斗は頷いた。
相沢の声は低かったが、語尾だけがわずかに揺れていた。
「メールは、あなたが送ったんですか」
「違います」
返事はすぐだった。
「ただ、あなたに会えと言われました」
「誰に」
相沢は答えなかった。
晴斗は鞄を開き、県の広域防災拠点計画に関する資料のコピーを出した。紙の端には、相沢の名前が作成担当者として印字されている。
「この仕様変更について聞きたい」
相沢の目が、紙の上で止まった。
「私は、回ってきた文書を整理しただけです」
「地元事業者の参加条件が削られ、叶野建設の関連会社だけが残った」
「私に決定権はありません」
「なら、誰にあるんですか」
蛍光灯が一度だけ明滅した。
相沢は、口を開きかけて閉じた。地下駐車場の奥を、別の車がゆっくり通り過ぎる。そのヘッドライトが二人の足元を横切った時、相沢の顔は病人のように青白く見えた。
「神崎県議の秘書から、県土木部へ指示が来ていたんでしょう」
晴斗が言うと、相沢の肩がわずかに跳ねた。
確信はなかった。
だが、その反応だけで十分だった。
「僕は、あなたを処分したいんじゃない」
晴斗は資料を握り直した。
「神崎に都合よく使われている人たちを、これ以上増やしたくない」
相沢は苦しそうに笑った。
「そんな顔で言われても、信じられません」
晴斗の胸に、鈍い痛みが走る。
相沢は続けた。
「あなたは今、職員を脅して資料を集めている人でしょう。県庁では皆、そう聞いています」
言い返せなかった。
相沢の視線が、晴斗の手元から動かない。
「妻は市立病院で働いています。娘は、来年受験です。私が余計なことをすれば、家族までどうなるか分からない」
「神崎は、あなたを守りません」
晴斗は静かに言った。
「あなたが黙っていても、書類に名前が残っている以上、最後に切られるのはあなたです」
相沢は唇を噛んだ。
「家族を守れる材料を持つか。それとも、何も持たないまま神崎に捨てられるか。決めるのはあなたです」
晴斗は資料を差し出したが、相沢は受け取らなかった。
紙は、濡れた床へ落ちた。
晴斗が背を向けた時、背後から掠れた声がした。
「木島議員」
振り返ると、相沢は柱にもたれていた。
「あなたは……神崎先生と何が違うんですか」
晴斗は何も答えられなかった。
市役所を出た後も、晴斗の耳には相手の最後の言葉が残っていた。
自分は何を差し出し、何を奪ったのか。
その勘定を、勝ち負けの言葉だけで済ませることはできなかった。
歩道を行く人々は誰も晴斗を知らず、信号が変われば一斉に歩き出す。
その当たり前の流れの外側で、自分だけが暗い取引の続きを抱えているようだった。
駐車場の天井から落ちた水滴が、足元の資料へ静かに滲んでいった。




