第七十五話:深淵の入口
佐伯のバーを出ると、夜の雨は細い糸のようになっていた。
晴斗は傘を開かなかった。店の軒下から一歩出るたび、冷たい雫が髪を伝い、頬から顎へ落ちていく。濡れた歩道には、向かいのパチンコ店の赤い看板が歪んで映っていた。通りを走る車が水たまりを踏み、重い水音だけを後ろへ残していく。
ポケットの中には、神崎の秘書が書いた「指導メモ」の原本と、小さなUSBメモリがあった。
県土木部との調整記録。市幹部が恐怖の中で差し出した内部データ。ここまで揃えれば、神崎の行政介入を白日の下へ引きずり出せる。そう思っていた。
だが、佐伯の言葉が、雨よりも冷たく胸に残っている。
お前は神崎を殺そうとして……自分を先に殺してしまったな。
晴斗は信号の前で足を止めた。
横断歩道の向こうに、閉店後の花屋があった。店先に残された白いシクラメンが、雨粒を受けて小さく首を垂れている。以前、結衣が駅前の植え込みの話をしていた時、晴斗は市民から寄せられた細かな苦情を、ノートへ一つずつ書き留めていた。
街灯が暗い。
歩道の段差で車椅子が止まる。
商店街の屋根から雨が落ちる。
市民の声を議会へ運ぶ。
ただそれだけのために、晴斗は議員になったはずだった。
「……今さら、何を思い出しているんだ」
自嘲するように呟き、晴斗は視線を落とした。
濡れたアスファルトに映る自分の顔は、街頭演説をしていた頃の自分とは別の人間に見えた。
翌朝。県警本部の取調室。
窓のない部屋には、白い蛍光灯の光が落ちていた。机の上には、紙コップに入ったぬるい水と、何枚もの供述調書が置かれている。向かいに座る取調官は、晴斗の顔を見るより先に、資料の束を静かにめくった。
「企画調整課長に対し、文書の提出を求めましたね」
「求めました」
「提出しなければ、停職処分を免れないと告げた」
「告げました」
取調官のペン先が、調書の上で止まる。
「それを一般に、脅迫的な要求と受け取られる可能性があるとは考えませんでしたか」
晴斗は膝の上で、指を組み直した。
課長の油汗。震える手。妻の事業所を持ち出した係長の顔。相沢の妻の、掠れた声。
考えなかったわけではない。
考えたうえで、進んだ。
「……可能性は、あったと思います」
取調官が初めて顔を上げた。
「ずいぶん素直ですね」
「嘘をついても、神崎県議が作った筋書きに乗るだけです」
「神崎県議の名を出すのですか」
「今は出しません」
晴斗は、机の端に置かれた紙コップを見た。水面は、エアコンの風でかすかに揺れている。
「僕が今、何を言っても信じてもらえないことは分かっています」
取調官は何も答えなかった。
事情聴取が終わった時には、外はもう夕方だった。県警本部の正面玄関を出ると、待ち構えていた記者たちが一斉に近づいてくる。
「木島議員、職員への強要を認めたんですね」
「神崎県議への告発資料は、脅して作らせたものですか」
晴斗は足を止めなかった。
フラッシュの白い光が、濡れた歩道へ何度も落ちる。車へ乗り込み、ドアを閉めた瞬間、外の声が厚いガラス越しに遠ざかった。
事務所へ戻ると、室内は冷え切っていた。
健太の机には、飲みかけのペットボトルが残っている。美咲が電話の横へ貼っていた子どもの予定表は、端だけが剥がれ、壁から垂れていた。結衣がいつも使っていたマグカップの底には、薄く乾いたコーヒーの輪が残っている。
晴斗はデスクへ座り、鞄からUSBメモリを取り出した。
出せない。
捨てられない。
その二つの言葉の間で、指先だけが冷えていく。
パソコンを開いても、画面には何も映らない。神崎を倒すための資料を持っているのに、晴斗は一歩も動けなかった。
その時、新着メールの通知音が鳴った。
差出人は不明。
本文には、短い二行だけがあった。
県土木部の中には、神崎先生よりも、自分の上司を恐れている人間がいる。
明日、午後六時半。県庁地下駐車場。
晴斗は画面を見つめた。
罠かもしれない。
神崎が、晴斗をもう一度「職員を脅す現場」で捕まえるために作った罠。
それでも、メールを閉じることはできなかった。
窓の外では、雨がまた強くなっていた。
暗い事務所の中で、パソコンの画面だけが、晴斗の顔を青白く照らしていた。
その光の向こうにあるのは、戻る道ではなかった。
深淵の、さらに奥へ続く細い入口だった。




