第七十四話:虚構の刃
翌朝。冷たい雨がシトシトと窓を叩く『青嵐の会』の事務所。
誰もいないがらんとした室内で、晴斗は一人、デスクのパソコンに向かっていた。
健太と美咲が去り、若林や結衣の姿もない。かつて市民の笑い声と熱気に満ちていた部屋は、いまや暖房の切れた冷たい牢獄のようだった。
ガチャリとドアが開いた。
入ってきたのは、昨日晴斗が応接室で追い詰めた企画調整課長だった。
課長は血の気の失せた顔で晴斗の前に歩み寄ると、一通の茶封筒をデスクの上に叩きつけた。
「……神崎県議の秘書から受け取った『指導メモ』の原本だ。これで満足か」
晴斗は無言で封筒を開け、中の文書を確認した。神崎の秘書による直筆の指示、そして県の協議案を取り下げさせた具体的な日時と圧迫の文言。神崎を行政介入で告発するための、紛れもない決定的な証拠だった。
「助かります。これで、あなたの処分は免れるよう配慮します」
晴斗が淡々と告げると、課長は蔑むような歪んだ笑みを浮かべた。
「配慮だと……? ふざけるな! お前は市役所中の幹部を脅し、恐怖で支配した! 今の役所内で、お前の名を口にする者すら一人もいない! ……木島、お前は神崎を倒す前に、人間として完全に死んだんだよ!」
課長は吐き捨てると、晴斗の返事を待たずに激しくドアを閉めて去っていった。
晴斗は手に残った指導メモを静かに見つめた。
胸の奥で、鋭い針で刺されたような痛みが走る。だが、晴斗は固く唇を噛み締め、その痛みを強引に押し殺した。
(これでいい……。僕がどう思われようと、証拠さえ揃えば勝ちだ)
その時、デスクの上のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。画面には「ニュース速報」の文字が躍っていた。
『【独自】葉山市議・木島晴斗氏に強要・職権乱用疑惑 市幹部らが相次ぎ被害届提出へ』
晴斗の思考が一瞬、フリーズした。
画面をスクロールする。地元の主要メディアが一斉に同じニュースを報じていた。
『木島議員が市役所幹部らに対し、過去の内部文書の提出を脅迫的に要求』
『精神的苦痛を受けた複数の幹部職員が、県警へ被害届を提出する意向』
『自ら「改革」を謳いながら、裏では暴力的な権力乱用か』
さらに、テレビの画面には市役所前に集まった報道陣と、清風会残党の議員が会見する映像が映し出された。
「木島議員のやり方は政治活動の域を超えた暴挙であり、公務員に対する明白な強要罪です! 我々は市議会として、木島氏に対する議員辞職勧告決議案の提出を準備しています!」
神崎の手回しだった。
晴斗が「市幹部を脅して資料を集めている」という事実を逆手に取り、職員たちを「被害者」として被害届を出させ、メディアを動かして晴斗を「職員を脅迫する冷酷な怪物」に仕立て上げたのだ。
間髪を容れず、晴斗の携帯に非通知の着信が入った。
『……木島晴斗議員ですね。県警捜査二課です。市幹部からの強要・職権乱用に関する申告について、任意の事情聴取を行いたい。本日午後、出頭していただけますか』
事務的な冷たい声。
逃げ場は、完全に塞がれた。
深夜。静まり返った佐伯のバー。
客の誰もいない店内で、晴斗はカウンター越しに佐伯と向き合っていた。
卓上には、晴斗が命がけで集めた神崎の「指導メモ」と内部告発データの入ったUSBメモリが置かれていた。
佐伯はウイスキーのグラスを傾け、紫煙の向こうから晴斗を見つめた。
「見事なハメ技だな。神崎の手際だ」
「……まだ負けていません」
晴斗の声は掠れていたが、その瞳には鬼気迫る執念が宿っていた。
「僕の手元には、神崎が行政に不当介入した本物の証拠がある。事情聴取だろうと警察の捜査だろうと、これを捜査機関とメディアに突き付ければ……!」
「突き付けて、誰が信じる?」
佐伯の冷徹な一言が、晴斗の言葉を遮った。
晴斗がハッと息を呑む。
「お前は今、『職員を脅迫して偽りの証言や資料を強要した容疑者』なんだよ、木島」
佐伯はグラスをコンと静かに置いた。
「神崎はお前の命綱である『告発資料』そのものの信頼性を壊したんだ。『木島が脅迫して作らせた捏造データだ』とな。容疑者となったお前がいくらその資料を掲げたところで、世間も警察も『保身のための苦し紛れの捏造』としか受け取らない」
「……ッ!」
晴斗の顔から、完全に血の気が引いた。
毒を回して相手を追い詰めたつもりが、自分が手にした毒の証拠そのものを「不法に入手した無価値な泥」へとすり替えられていたのだ。
仲間を失い、市民の信頼を失い、さらに告発の武器すら無力化された。
完全なる詰み。
「お前は神崎を殺そうとして……自分を先に殺してしまったな」
佐伯の哀愁を帯びた声が、暗闇の中に冷たく響き渡った。
晴斗は両手で顔を覆い、言葉を失ったまま、深淵の底へと落ちていった。




